じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]
岡山→羽田の早朝便から見た富士山。7時59分撮影。いつもより早い便に乗ったので、宝永山火口や西斜面に影ができており、立体感のある富士山を眺めることができた。


1月15日(月)

【思ったこと】
_70115(月)[心理]新年早々に「あの世」を考える(6)人は生まれてきたついでに生きる

ひろさちや氏の

●仏教に学ぶ老い方・死に方(新潮社、ISBN4-10-603542-1)

の感想の6回目(実質5回目)。今回は第3章“「人生の意味」という束縛”について感想を述べることにしたい。

 第3章の初めのほうで、ひろさちや氏は、世の中に「束縛」されている人間について考察しておられる。人生に意味があるとか、目的を達成しようと考えたりすると、それによって「自分はちっとも目的に近づいていないと観じられ焦燥感に襲われる。世の中の役に立つ人間にならなければならぬと思い込まされることも大きな束縛となる。モームの『人間の絆』の原題は「Of Human Bondage」であって、これもまた、「絆」というよりは「束縛」という意味に近い(←というか日本語の「絆(ほだし)」はもともと束縛という意味)。

 そこで、ひろさちや氏は、

●人生は無意味、人は生まれてきたついでに生きる

という、ご自身の若い頃からの持論であり「武器」を提起されることになる。




 「人生は無意味」とか「人は生まれてきたついでに生きる」といったお言葉は、一人歩きしてしまうと誤解や曲解を生む恐れが出てくるようにも思えるが、基本的に正論であって、私自身、もともと人生とはそういうものだと思ってきた。但し、私の捉え方は、ひろさちや氏とはかなり異なっているかもしれない。

 私が「人はうまれてきたついでに生きる」と考えるのは、もともと人は地球上の動物の中から進化し、結果的に生き残って繁殖した種の1つにすぎないと確信しているためである。従って、人という種には何ら特別の存在理由はない。地球環境にうまく適応すればさらに繁栄するが、地球環境が激変したり(←人間自ら激変させてしまうかもしれないが)、人類を超える種が出現して世界を制覇すれば結果的に絶滅するだけにすぎない。

 個人としての人は、そういう種の中で再生産されていく存在に過ぎず、どう生きるかということについて生まれながらの「絆」はありえない。但し、通常、人は、人類という種の一員として、個体の保存(生命の維持と安全)と繁殖(子どもをつくり育てる)に貢献する機能が生得的に組み込まれており、(非婚や同性愛などのマイノリティはあっても)マジョリティとしては、それを機能させていくことで社会全体がうまく維持されるようにできているのだと思う。

 しかし仮に「生まれてきたついでに生きる」を認めるにしても、どういう生き方がその人に幸せをもたらすかという科学的な分析は可能であると私は思っている。例えば、どの個人においても、天から与えられた目標などはあり得ないと私は考えるが、目標を持ってそれを達成するように生きることのほうが無目的で刹那的に生きるよりも「お得」であると考えるなら、やっぱり目標はあったほうがいいとは思う。要するに「生まれたついで」にどのような付加価値をつけるかは、個人の工夫次第、努力次第ということになるだろう。

 次回に続く。