じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]
1月9日より授業が再開され、学内は賑わいを取り戻した。多少気になるのは、道路を塞ぐ迷惑駐輪。図書館(右)と講義棟(左)の間は2車線の道路になっているのだが、小型車がやっと通れる程度しか空いていない。裏側の駐輪場はまだまだいっぱい空いているのだがなあ。

ま、車道だけに限って言えば、講義棟の前はすべて車進入禁止にしたほうが安全でいいのかもしれないが、車椅子利用者や緊急車両のスペースくらいは空けておかないと困る。



1月9日(火)

【思ったこと】
_70109(火)[心理]新年早々に「あの世」を考える(4)労働懲罰説と労働神事説

ひろさちや氏の

●仏教に学ぶ老い方・死に方(新潮社、ISBN4-10-603542-1)

の感想の4回目(実質3回目)。今回は第2章の前半部分について私なりの考えを述べてみたい。

 第2章の冒頭では、エデンの園を追われたアダムとイヴが額に汗して働かなければならなくなったことを引き合いに出して、ヨーロッパでは、「労働懲罰説」が一般的であるというようなことが書かれてあった。いっぽう日本の神道の考え方は「労働神事説」であるという。

 これは例えば、
  • 窓際族は天国(=「労働」という懲罰を受けないで給料が貰える状態)か、地獄(=重要な任務から外され、働く権利を奪われている状態)か
  • 定年を早めるべきか(=早く懲罰から脱して悠々自適の生活を送る)、延長すべきか(=生涯現役の機会を保障する)か
といった議論にも直結してくる。




 西洋と日本の労働観の違いについては、日本行動分析学会のニューズレター連載:

生きがい本の行動分析・第6回:内山節『自由論---自然と人間のゆらぎの中で(2000年 春号  No. 19)

の中で私自身論じたことがある。ちょっと長くなるが関連部分を引用しておくと、
この書【←内山氏の著作のこと】の最大の意義は、

働くことはなぜ最高の生きがいの場とならないのか

という、現代人の多くが懐く疑問に対して、1つの明解な解答を示していると ころにある。そもそも、労働は賃金、売り上げ、完成といった諸々の好子によっ て強化されるものである。とすると、労働自体はスキナーのHappinessの定義: 生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果とし てもたらされたがゆえに行動することである[行動分析学研究, 1990, 5巻, p.96. 佐藤方哉訳を一部改変]に完全に一致するはず。にもかかわらず、そし て奴隷や囚人でないにもかかわらず、我々が時として労働を時として義務的に 感じ、休息や趣味に興じることに生きがいを見いだしがちであるのはなぜだろ うか。「労働の自由」ではなく「労働からの自由」[六章、110頁]を求める ようになってしまったのはなぜだろうか。

 内山氏は、これについて次のような原因を挙げている[以下、いずれも長谷 川による要約]。

(1)労働力不足の時代に就職先を求めた人と、労働力過剰の時代に求職活動を おこなった人とでは、可能性が大きく異なることにも反映されるように、 近代的雇用では、労働を開始する前に、偶然と不安に満ちた近代的雇用に、 身をゆだねる必要性が生まれる。[六章、101〜103頁]。

(2)今日の社会では、何が必要で、何が不必要なのかもわからない。労働によっ て生み出される商品が人間の暮らしにとって本当に必要なのかどうかは分 からない。それゆえ、労働をとおして、人間の社会に有用な活動ができる かどうか分からない。社会に貢献するといった労働の感覚が消えれば、労 働は個人生活のための手段になっていく。一面では労働を収入を得るため の手段にし、他面では自分の働きぶりに自己満足するための手段にする。 すなわち、ひたすら我がために、私たちは働くようになる。こうして労働 は、エゴイズムに支えられた活動へと変貌する[六章、103〜105頁]。

(3)経済活動のなかでは、仕事をするのは誰でもよい。かけがえのない一人の 人間として仕事をしているつもりなのに、経済活動のなかでは、 代替可能 な一個の労働力にすぎないことを知らされる[六章、104〜105 頁]。

(4)労働が不自由なものになっていると感じさせるものは、単純労働や肉体労 働そのものにあるのではなく、その労働と全体の労働との関係が協調的に 営まれているかどうかとか、その労働と自分の形成との関係や社会との関 係が、どうなっているのかという方に原因がある[六章、 111〜112頁]。


 同じ話題は1999年の紀要論文でも取り上げたことがあった。
...スキナーは、産業革命以後、仕事が細分化されてその1つ1つが別の人たちに割り当てられるようになったために、金銭以外の強化子が何もなくなってしまったことを問題視している(Skinner, 1979)。産業革命以前の職人たちには、仕事のどの段階にも、“完成”という、仕事に内在化(ビルトイン)された結果が随伴していた。今でも、伝統工芸の職人にインタビューすれば、必ずといってよいほど、“作ることの喜び”が伝えられる。これに対して、オートメーション化された工場の労働者は、モニターに映し出された映像を見ながら、機械的にボタンを押す。この場合、自分が操作している生産物を直接見たり触れたりする機会はない。また、自分の操作が製品全体の完成にどういう貢献をしているのかさえ、はっきりと確認できない場合すらある。また、事務系の職員は、毎日、書類に数字を書き込み、判を押す。あるいは、パソコン画面に向かって、機械的に文字を打ち込む。ここにも、ビルトインされた行動の結果は見えてこない。

 現代でも、農林業や漁業に従事する人々の場合には、労働にビルトインされた結果が随伴する度合は大きいものと思われる。サラリーマンの中に、いわゆる脱サラで、農村に移り住む者がいるのも、おそらく、会社勤めという付加的な随伴性ばかりの生活に耐えきれなくなったためではないかと推察される。

 しかし、農林業や漁業と言えども、経営が企業型になり、機械化が進むと、“種を蒔いて、苗を育てて、収穫する”とか“仕掛けを工夫して、お目当ての大きな魚を釣る”というようなビルトイン随伴性に代わって、収穫を増すための農薬の大量散布や、規格外や採れすぎた生産物を捨て去る、あるいは、トロールで、魚をごっそり捕獲する、というような行動が出てくる。その行動を維持・強化しているのは、言うまでもなく、付加的な好子(=お金)に他ならない。こうなれば、第1次産業の従事者であっても、もはや労働に内在した好子によって強化される機会が失われてことになるだろう。
 ということで、宗教の違いが労働観を変えたというよりはむしろ、産業労働における近代的雇用が、本来の「働きがい」を奪ってしまったというのが私の考えである。

 次回に続く。