じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



1月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真]
元日に登った龍ノ口山(257m)で見かけた「助け合いの木」。2本が寄り添って強風に耐えている。なお、本格的な「助け合いの木」の写真は2006年6月7日や、2006年5月22日の楽天版日記にある。



1月8日(月)

【思ったこと】
_70108(月)[心理]保守主義の空洞化と信仰の重要性?

 1月に入ってからこの日記で「新年早々に「あの世」を考える」という連載をしているところであるが、たまたま、1月7日付けの朝日新聞オピニオン欄・私の視点で、中島岳志氏(北大・文化人類学)が、

●保守主義 拡大より空洞化が問題

というお考えを述べておられるのが目に留まった。今回の連載にも多少関係がありそうなので、とりあえず。感想を述べさせていただく。

 中島氏の論点を長谷川の理解する範囲で要約すると以下のようになる。

  1. 近年台頭している「保守主義」は、真の保守主義であるとは思えない。
  2. 近年の「保守主義者」は、人間観でも真の保守主義を踏襲していない。保守主義者は本来、個人の理性や能力に対する過信を捨て去るという「懐疑主義的人間観」を共有する。「人間はどんなことでもできる」という思い上がりをいさめることが、保守主義者に共通する態度である。
  3. 人間は非合理的で利己的な存在だ。エゴイズムや怠惰、おごり、ねたみなどを完全に払拭することなどできない。保守主義者は、このような人間の根源的な「悪」を自覚し、理性の不完全さを直視する。
  4. 保守主義者は、「悪」を抱え込んだ人間が秩序や倫理を保つために、信仰の重要性を説く。精神の主柱となる宗教性こそが、人間の「悪」を抑制し、自らの能力への過信をいさめると彼らは考える。「懐疑的人間観」に基づく信仰の重要性---。これこそが保守主義の理論的・精神的主柱である。
  5. 福田恒存は、「悪の自覚なくして、どうして個性がありうるか」と問い、死という限定性を認識した人間が、絶対者によってつかさどられた世界において「部分としての役割」を自覚的に演ずることを「生の本質」と説いた。また、戦後の日本は「神が無くなってしまったこと」だけではなく、「神の不在に気づかなくなってしまったということ」にこそ問題があると論じ、保守主義者としての人間観を明確にした。しかし、戦後生まれの「保守主義者」たちは、このような宗教的認識と文学的感性を、共有していない。
  6. 彼らは、往々にして安易な「大東亜戦争肯定論」を展開し、いじめ問題については武士道のような精神主義の復活を声高に叫ぶ。 しかし、真の保守主義者ならば、戦前・戦中の全体主義的熱狂に懐疑と批判のまなざしを向け、人間の根本的悪を反省的に凝視するところからいじめ問題の解決策を探るはずだ。
 この方面には全くの素人でるとお断りした上で感想をのべさせていただくが、
 まず、1.については、そもそも時代を超えた「保守主義」という一貫した思想があるのかどうかは私にはよく分からない、社会学者はしばしば「概念の耐用年数切れ」などというが、文化人類学者はどうなのだろう?

 それと、「保守主義」を標榜する政治家たちがイデオロギー優先で政策を打ち出しているかどうかもよく分からない。宗教政党はともかく、寄り合い所帯の与党勢力にあっては、現実にはせいぜい数十年先までの国の将来を見通した上で最善の策を検討し、それを実現するにあたって有用な「主義」があれば後付けしているというように思えてならない。また、少なくとも、小泉政権は、天皇を守るという一点を除いてはもっぱら共和主義(2000年1月6日の日記参照)に近い改革を推し進めてきたようにも思う。安倍首相は、自らの著書の中で「保守主義者」としての立場を鮮明にしているそうだが、いまのところ、小泉「共和党」政権を引き継いでいるだけという印象しか、私には持てない。

 2.から4.に至る保守主義の人間観は、そういうことであろうとは思うが、ひとくちに信仰の重要性といっても、ユダヤ・キリスト教と、イスラム教と、仏教と、神道(あるいはもっと原初的な日本古来の信仰)では、人間観、社会観はもとより、日常生活への影響力も大きく異なっているはずだ。

 なお、スキナーは『科学と人間行動』の中で、人間行動の科学を打ち立てることが、科学技術がもたらす弊害や危険を克服し、「非合理的で利己的、エゴイズムや怠惰、おごり、ねたみ」などをうまくコントロールする仕組みが可能であると説いている。この場合、宗教あるいは道徳が果たす役割は限定的であって、必ずしも不可欠とは言えない。5.や6.についても同様であり、心理学や行動分析学の視点から、人間観を構築することもありうるというのが私の感想。