じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



9月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真]
9月27日の日の入り。昨日も述べたように、岡山市では、9月27日は、日の出は午前5時55分、日の入りは午後5時55分であり、昼と夜の長さが同じになることに加えて、すべての「時」と「分」が「5」のゾロ目になるという珍しい日であった(高松市なども同様)。さすが「晴れの国おかやま」だけあって、日の出も日の入りもバッチリ見えた。但し、写真左上にもあるように、実際には17時44分ころに近くの山の後ろに沈んだ。

写真左下は、その少し前に見られた「光る輪」。写真右はその拡大(右下は、以前別の場所で撮ったもの)。この時期、岡山スカイガーデンの観覧車が夕日に照らされて光る現象が見られる。2005年3月14日にも写真を掲載していることからみて、私のアパート周辺地域では、春分の日の少し前か、秋分の日の少し後が、反射の角度が一番よろしいようだ。



9月27日(水)

【思ったこと】
_60927(水)[心理]日本教育心理学会第48回総会(10)対話的自己論(1)

 今回は、総会2日目に行われた

●対話的自己論(The Dialogical Self)の適用・発展可能性

というシンポの感想を述べることにしたい。




 ところで、2日目の夕刻は、もともと、AMDAの代表S氏の講演を拝聴しようと思っていた。ところが、プログラム冊子で自主シンポジウムの日程のところを細かくチェックしてみると、同時間帯に開催される、

●学校現場におけるフィールドワーク研究の意義と可能性(2)

というシンポに、『あなたへの社会構成主義』を翻訳したH氏が指定討論者に名を連ねておられることが分かった。

 また、やはり同時間帯に予定されている、

●対話的自己論(The Dialogical Self)の適用・発展可能性

のほうには、これまた有名な『自己物語論が社会構成主義に飲み込まれるとき ケネス・ガーゲンの批判的検討.』や『検証・若者の変貌―失われた10年の後に』などで知られる、新進気鋭の社会学者A氏が登場されることが分かった。

 1つの体で3つの会場に足を運ぶことはできない、さてどうしたものか、と思ったが、とりあえず、AMDA代表の方は地元なので、いずれまたお話を拝聴する機会があるかと考えてキャンセル。また、上記2つのシンポのうち、「学校現場におけるフィールドワーク研究」はテーマとしては門外漢だったのでこれもキャンセルさせていただくことにした。




 さて、迷いに迷ったあげくに参加した「対話的自己論」であるが、これもまた私にとっては未知の領域。私がこれまで取り組んできた心理学では、「セルフコントロール」はしばしば出てくるものの「セルフ」そのものは扱ったことが無い。極言すれば、私はこれまで「セルフ」という概念自体をを必要だと思ったことが無かった。

 しかし、例えば、「一貫性のある自己」などという議論に立ち入ってみると、間接的とはいっても「自己」に言及せざるをえないところがある。じつは、近々、「脱アイデンティティ時代の心と環境」などという大それたタイトルで公開講座を行う機会があるのだが、その講演予定メモを抜き書きしてみても
  1. 浅野(2005)「多元化する自己」の広がり
    第一に、労働力市場の流動化に伴って標準的な人生物語が失効すると同時に、自己責任をべースにした新しいシステムはそれぞれの場面において各人が自分自身についての物語を語るよう強く要求するようになってきている(各種入試や就職・転職における自己アピール等)。
    第二に、消費社会化の進行は、商品を記号として消費し、それを通して自己アイデンティティを構築・再構築するという作法を一般化させてきた。このような作法を幼いころから身につけた者たちは、場面に応じて自己物語を柔軟に編集・再構成するであろう。
    第三に、情報社会化の進展、とりわけインターネットの普及は、自己の複数性を低リスクで維持・管理するためのインフラを提供する。例えば、複数の日記・ブログを書き分けているユーザの存在などはそれを象徴している。
  2. 千田(2005):「アイデンティティ」に還元されない「ポジショナリティ positionality」
  3. サトウ・渡邊 (2005):モード性格論、/一人称的性格、二人称的性格、三人称的性格(「自意識としての性格」、「関係としての性格」、「役割としての性格」)。
  4. 河野(2006):不毛な「自分探し」を煽る心理主義的発想を厳しく批判.
    (a)私たちの「知る自己」が同一であるとするならば、それはある一定の環境や状況に関わり続けているからである。...「私は何者か」と自問するときに私たちが探し求めているのは、じつは、一貫した環境であり、統合性のある環境なのではないだろうか。(第一生:37 頁)
    (b)私の性格の同一性とは、せいぜい種類の同一性、あるいは「家族的類似」でしかない。(第二章:83 頁)。
    (c)パーソナリティ理論は、遺伝性と社会的な有用性とを直結したような概念を作り出しかねない点において、被験者にミスリーディングな自己観を提供してしまう可能性がある。(第二章:104 頁)。
    (d)私たちがすべきは、心理主義にとらわれたままで、無自覚のうちに自己を既存の社会システムに過剰に適応させてしまう「自分探し」などではなく、環境リテラシーを通じて、自分(たち)自身で環境と自分(たち)との関係性をリデザインすることである。本当の自分探しとは、自分が充実して生きられる環境(ニッチ)を自ら形成し、再形成してゆくことなのである。(終章:244-245 頁)。
  5. 養老(2004):人間は変化しつづけるものだし、情報は変わらないものである、というのが本来の性質です。ところがこれを逆に考えるようになったのが近代です(27-28頁)
    (a)...ここでいう情報化社会とは、いわゆるテレビやインターネットの普及といった、現代において使われている味のみを指しているわけではありません。本来、日々変化しているはずの人間が不変の情報と化した社会のことを指しています。(26-27 頁)。
    (b)本来、人間は日々変化するものです。生物なのだから当たり前です。...それでも毎日目が覚めるたびに「今日の俺は昨日の俺とは別人だ」と思うようでは、社会生活も何もあったものではない。だから、意識は「昨日の俺は今日の俺と同じだ」と自分に言い聞かせ続けます。(27 頁)。
    (c)人間は変化しつづけるものだし、情報は変わらないものである、というのが本来の性質です。ところがこれを逆に考えるようになったのが近代です(27-28 頁)。
    (d)常に変わらない自分が、死ぬまで一貫して存在している、という思い込みが日本人の前提になっています。...おそらくこの思い込みというか論理は、なかなか破られないものだからこそ、一般化したのでしょう。破られにくいのは、たとえ他人から指摘されても「変わった部分は本当の自分ではない」という言い訳が常に成り立つからです。
  6. 上野(2005):アイデンティティは耐用年数切れ
    ...その歴史的現象そのものに変化が起きれば、「核家族」同様、「アイデンティティ」という概念も、耐用年数が切れるにちがいない。 【2頁】 /実のところ、フロイトの自我心理学に対してエリクソンのアイデンティティ概念が果たした貢献とは、この自己の構築性にある、と言ってよい。エリクソンは、フロイトの「自我」概念を、ある意味で脱本質化した。だからこそアイデンティティの概念は、これ以降社会学に受け継がれていくことになったのである。このようなアイデンティティの構築性からは、あとで論じる「アイデンティティの形成」や「アイデンティティの管理」のような概念が生まれるまではあと一歩であろう。 【9頁】
  7. 臨床心理学会大会(2006).「私」という病―臨床の現場から考え始めるー
    心理臨床の核とも言うべき「理解」「共感」等の側面でも、社会的状況や「関係」ではなく、対象者の個人内心理を一方的に「理解」し、「共感」する傾向が強まっています。
  8. 臨床心理学会大会(2006) .現代社会の心理主義化を問う
  9. 大森(2005):「臨床心理学」という近代
    市場競争原理に取り込まれ拡大化しつつある、臨床心理学という近代知。 今日の臨床心理学は、個人還元論が優勢で、社会・状況還元論は退潮傾向にある。そのアンバランスな構図に不健全な時代状況が映し出されている。 はたして、この近代知は個に優しい知なのか
  10. 鯨岡(2006):ひとがひとをわかるということ 間主観性と相互主体性.
というような形で、さまざまな立場から「自己」や「アイデンティティ」や「一貫性」や「主体性」に関する議論が湧きあがっている。自己論そのものは、はるか昔からいろいろとあるが、グローバル化の流れの中で、「自律的な、一貫した、自己」を求める外圧があり、その一方で、重圧に耐えきれなくなった結果として「多元化する自己」があらわれるなど、自己論花盛りになりそうな予感はする。ということもあって、今回、耳学問として「対話的自己論」にふれておくことは大いに意義があった。

 次回に続く。