じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真] セミの抜け殻、集合! 8月3日撮影。本文参照。



8月26日(土)

【思ったこと】
_60826(土)[雑学]セミの不思議/アヘン戦争

 金曜日の昼に生協食堂で、理学部の先輩教員から翌日の講演会のお誘いを受けた。食事中の雑談にあがった「セミの不思議」をテーマとした30分程度の講演であるということなので、急遽、参加させていただくことにした。

 ちなみにこの御講演は、「赤レンガフォーラム」という、放送大学の催しの一環であった。そう言えばこの講義室で4月下旬、私自身、授業を行ったばかりであり、私は必ずしも部外者というわけではなかったようだ。




 さて、本題であるが、まず、セミの基本的情報についてはウィキペディアに解説されているので、ここでは繰り返さない。地上で脱皮したあとの余命は数日から2週間程度などと解説している本もあるが、条件が良ければ(←速やかにメスを見つけて早死にしてしまうほうが、生物的には「良い条件」なのかもしれないが)3週間から一ヶ月くらいは生きるらしい。

 セミの鳴き声と言えば、日本では夏の風物詩になっているが、欧米のセミは、そんなに毎日、大声では鳴かない。欧米人が夏に日本を訪れると、木が鳴いているのではないかと驚くこともあるとか。そう言えば、私自身、海外旅行先でセミの鳴き声を意識したことは全く無い。なぜ、日本、あるいは世界の一部の地域だけでこんなに大声でセミが鳴くようになったのかは不思議である。

 セミの鳴き方は、同じ種類であっても地方によって異なる。ミンミンゼミの「ミンミン」の回数は関東のほうが多い。ツクツクボウシも同様。

 セミの鼓膜は腹部にあるという。あれだけ大きな音で鳴くと自身の鼓膜が破れるのではないかと余計な心配をしてしまうが、実は、鳴いている最中は膜がたるんでいて騒音を感じないらしい。もっとも、鳴いているセミにこっそり近づこうとしても逃げられてしまうことが多い。おそらく鳴いている最中であっても、別に震動を感じる器官があるか、複眼を頼りに身の回りの危険を察知できる仕組みがあるのだろう。




 上にも述べた通り、脱皮後のセミの余命は長くても1カ月にすぎないが、幼虫期はべらぼうに長い。日本のセミの場合短いもので2年、長いもので4〜5年だそうだ。よく「7年」などと言われるが、もうすこし短め、また生育条件によって「早期卒業」ならぬ「早期脱皮」に至るケースもあるという。地中生活が長いのは、氷河期に適応していたためらしい。

 いっぽうアメリカには、「17年ゼミ(ジュウシチネンゼミ Magicicada spこちらに英文解説あり)」と呼ばれる長命のセミがいる。人間、クジラ、ゾウなどを含む地球上のあらゆる生物の中でも、生殖年齢が17年もかかるのは珍しいという。このセミが地上に出現する年は地域によって異なるが、とにかく同一地域においては、17年ごと、ほぼ一週間のあいだに大発生するという。そればかりか発生のピークはわずか2日間に限られるという。地中に居ながらにしてどうしてこの時期を察知できるのか、「さあ地上に出よう」というような相互の「コミュニケーション」があるのか、あらかじめ組み込まれた正確な時限装置があるのか、このあたりは大きな謎であるが、今回の講演ではそのことについての説明はなかった。

 興味深いのは、これとは別に「13年ゼミ(ジュウサンネンゼミ)」が居ることである。ある地域におけるセミの出現時期が、17または13という素数になっていることについては、ネット上でもいくつかそれに言及したコンテンツがある。要するに、他の周期では他の「血統」との交雑が進み、繁殖や適応に不都合となる、そこで結果的に、素数周期のセミだけが生き残ったという説であるが、それぞれの周期や、最小公倍数の周期が一人の研究者の寿命を上回るほどにべらぼうに長いので、解明はなかなか進んでいないようである。

 講演ではこのほか、セミの発声器官についての解説もあった。死んだセミを解剖して調べてみると面白そうだ。




 今回の催しでは、もう1つ、東洋史ご専門の客員教授によるアヘン戦争前後の中国の歴史について小講演があった。ウィキペディアにも解説されているように、アヘン貿易というと、悪者のイギリスが、植民地のインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸出する事で輸入超過分を相殺し、三角貿易を整えるために仕組んだ謀略であるかのように思われてしまうが、じつは、アヘンの原料となるケシは、インドアヘンとは別に、中国国内、特に四川省で、アヘン戦争以前から大量に栽培されていたのだそうだ。その生産量は、イギリスからの輸入量の2倍にも達していた。

 いっぽう「悪者」のイギリス国内でも、「アヘン貿易反対協会」のようは反対運動があった。反対者たちは、中国の国内でもアヘンが生産されており、「中国はアヘン貿易を嫌がっていないんじゃないか」という論調に戸惑うふしもあったらしい。

 このほか、1904年頃までのイギリスでは、アヘンは肯定的に利用されていたという資料もあるらしい。上流階級で喫茶習慣があったほか、一時期までは乳幼児を落ち着かせるための薬にも含められていたということだ。

 こうした「再解釈」が、「西欧で定式化された歴史の基本法則を東洋史に無批判に適用することへのコペルニクス的展開」の一環としてなされたというのが御講演の本来の趣旨であったようだが、短時間であったこともあり、「華夷秩序」などの中国独自の論理とどう結びつくのかについては、十分に理解することができなかった。