じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真] 8月23日は「処暑」であったが、岡山では最高気温が34.4度、最低気温26.5度と、相変わらずの暑さであった。しかし夜になって涼しい風が吹き、24日朝は11日ぶりに最低気温が25度を下回った模様である。

 また朝の散歩時に気づくのは、日の出が遅くなったことだ。岡山でいちばん早い日の出時刻は6月中旬頃の4時51分であるが、8月24日には5時31分、散歩に出かける頃とちょうど重なる。写真は朝日に照らされるヘチマの花と実。



8月23日(水)

【思ったこと】
_60823(水)[心理]「学習療法」認知症に効く?(4)セラピーは手段か目的かという議論

 8月20日の朝日新聞(大阪本社)の

「学習療法」認知症に効く?/毎日、単純計算や音読/介護施設275カ所採用/「脳トレ」川島教授が考案/専門家静観 進まぬ議論/専門誌掲載 急速に拡大

 という見出しの記事に関する連載の4回目。

 今回は、「パッケージ効果」についてもう一度詳しく取り上げることにしたい。なお、本日取り上げる内容は「セラピー」一般についての議論であり、「学習療法」だけを想定したものではないことをあらかじめお断りしておく。

 8月21日の日記では「家庭教師Aさんに教えてもらうことは、うちの子の勉強にとってプラスになるか」という例を挙げた。今回は後の議論につなげるために、「野球をすることは中年男性の健康にプラスになるか」という別の事例をあげることにする。

 「野球をすることは中年男性の健康にプラスになるか」ということを検証しようと思った場合にまず思いつく実験計画は、
  • 被験者の中年男性に健康診断を実施。
  • 実験群と対照群(統制群)にランダムに分け、健康診断結果に差が無いことを確認しておく。
  • 実験群に割り当てられた被験者はは一定期間、野球の練習や試合に参加。対照群は、野球に参加しないこと以外は、実験群と同じ生活(仕事、食事など)を続ける。
  • 一定期間終了後に、再度健康診断を実施。両群の間に統計的な有意な差があれば「野球をすることは中年男性の健康にプラスになる」という仮説は支持されたと結論。
という内容である。

 しかし、この実験的検証で有意差が確認されたとしても、「野球のうち何が効いていたのか」は明らかにはならない。野球の練習メニューのうちのランニングだけに効果があったのかもしれない。また、この検証では、「野球のほうがサッカーより健康にプラスになるかどうか」は何ら検証されていない。今回話題の「学習療法」もこれと全く同じレベルの検証段階にあると言えよう。




 さて、仮に「野球の練習メニューのうちのランニングだけに効果があった」ということが後に解明された場合はどうすればよいのだろうか。時間とコストの節約のために、他の練習は取りやめてランニングだけ実施すれば効果は上がるだろうか?

 ここで、自然科学的な効果検証の議論とは異なる、何が手段で何が目的なのかという別の議論が出てくることに目を向ける必要がある。健康増進だけを唯一の目的としている人であるなら、おそらく、野球のチームをやめてランニングだけに集中するであろう。しかし大半の人は、「ランニングだけではつまらない。野球を楽しみながら、その一環としてランニングにも参加したい」と表明するであろう。この場合、野球は、健康増進の手段であるとともに、それとは独立した目的にもなっている。また、ランニングを動機づける(←正確には「強化する」)働きをしていると言える。

 次に重要なことは、野球というのは1人だけで始められるスポーツではない。チームがあり、また優秀な監督やコーチがあって初めて実現できるのである。そういう意味では、「野球に健康増進効果があるか」という議論は、「どういうスタッフが、どういう支援をしたか」ということと切り離しては検証できない。

 もう1つ重要なことは、参加者がどれだけ能動的に野球に参加したのかという点である。ここでいう「能動」とは、参加者にとって「野球に参加してもしなくてもよいという任意性が保たれ」、かつ「野球に参加することが、参加に内在する強化子(=「好子」)によってポジティブに強化されている」という条件が揃っていることを意味している。そうではなく、半ば強制的に参加させられていた場合、あるいは、別の報酬目当てに参加していた場合では、仮に健康増進効果は同様であったとしても、QOLは異なってくるに違いない。

 以上述べたことは、今回話題の「学習療法」にもすべて当てはまる。つまり、「学習療法」というのは、音読計算だけではなく、支援スタッフとの交流を前提として構成されており、また、それが手段なのか目的の一部なのかによって議論が異なり、さらには、どこまで「能動」が保証されているのか、といった議論がある。次回に続く。