じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真] 新緑の奥津湖(5月22日撮影)。苫田ダム建設をめぐっては、かつては地元・奥津町が建設反対を「町是」としていた時代もあったが、その後、方針を転換。しかしその奥津町も今は合併して鏡野町の一部になって、町名が消えた。

 写真はふるさと味わい館からの眺め。ざっと見渡したところでは意外に貯水量が少ないという感じ。写真下半分には、かつての道路の一部が見られる。

 この展望所には、ちょうど、認知症のお年寄りのグループがピクニックに来ておられた。そのうちのお一人が「みんなゆっくりしていなさい。私は先に山を歩いて家に帰る」というようなことを言い張ってスタッフに引き留められていた。この景色を眺めてどういう思い出が蘇っていたのだろうか。


5月26日(金)

【ちょっと思ったこと】

国民であることと会員であることの二重生活

 教育基本法改正論議が活発になっているが、5月24日付けの朝日新聞世論調査によれば、「国を愛する」ことや「日本を愛する」ことを、教育の目標として教育基本法で定めることに「賛成」が56%で「反対」は29%という結果になったとか。但し、賛否の比率には世代間で相違があり、60代以上では約70%が賛成だったのに対して、20代では「賛成」42%と「反対」43%というように賛否が伯仲していたという。

 国会審議の詳しいことは分からないが、私のような心理学の立場から見れば、「態度を養う」とか「心を育てる」といった議論は抽象論にすぎず、具体的な行動目標からはあまりにもかけ離れているという印象が強い。しかし現実の政治というのは、けっきょく、そういう抽象語の曖昧さを利用して妥協点を見出していくものなのだろう。

 それはそれとして、最近このことに関連して思うのは、国、民族、郷土などに、我々がどの程度の帰属意識、あるいは所属感を持っているのかということだ()。このことと、いま論議になっている「愛する」ということとは、かなり意味内容が異なっているように思う。
]「意識」や「○○感」といった言葉は、厳密には行動的に再定義する必要があると考えているが、ここでは深入りしない。




 単に「愛する」といった場合、例えば「自然を愛する」と言った場合は、必ずしも帰属意識を前提とはしていない。とっさに人の命を救う時にも帰属意識が働いているとは必ずしも言えない(同胞や味方であると感じた上で救うならば帰属意識が前提となる)。

 我々が「じぶんの国」というものを強く意識するのは、外国を旅行する時、災害などで国の保護を受ける時、国全体が他国からの脅威にさらされた時なであろう。しかし、「平和」な日常生活の中ではむしろ、国全体よりも、自分が所属する何らかの集団からサービスを受ける機会が多くなる。特に民営化が進み、国や自治体よりも民間のサービスを受ける機会がふえると、その度合いは大きくなる。もちろん、一口に「会員」と言っても、営利企業が運営する特典会員、宗教団体、労組、生協組合員、プロ野球応援、同好会などいろいろあり、単に会費金を払えば入会できるものもあれば、厳重な資格審査を伴うもの、会員としての義務を規定しているものなど多種多様ではある。

 とにかく、いまの世の中、「国と個人」という単純な関係では成り立っていない。家族の一員であることはもちろん、個人はそれ以外にも、それぞれ複数の集団に属し、集団間の協力や競争や対立を含んで、国というものが存在しているのである。