じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真] エリカ。1月23日の写真と同じ株。寒さが一段落して勢いを増してきた。


3月5日(日)

【思ったこと】
_60305(日)[心理]「家族・思い出の種まき」

 2月26日の早朝に録画していたテレビ寺子屋1470回「みなみらんぼう「家族・思い出の種まき」を視た(各局の放送予定表がこちらにある。みなみらんぼう氏の講演は、岡山では3月12日に第1472回「思へば遠く来たもんだ」という続編がある模様)。

 1470回の「家族・思い出の種まき」の内容は放送記録に記された通りであり、
  • 5歳の時、春先に草摘みに行った時におばあちゃんからスミレの名前の由来を教わった記憶。
  • 中1の春、母親が37歳の若さで無くなった時。
などが印象に残った。

 おばあちゃんから教わった記憶は、その時はもちろん、結婚した時も思い出すことは無かったが、2人の娘さんを連れて野道を歩いていたとき、ふとその時の記憶が蘇ってきたという。

 また、ミリオンセラーとなった「山口さんちのツトムくん」は、じつは、知らぬうちに母親を偲んでいる歌であったとか。

 家族で一緒に過ごせるのはほんの一瞬であるが、蒔かれた思い出の種のいくつかはずっと後になって発芽することがあるという内容であった。




 私自身の最も古い記憶は、2歳の頃、こんな感じでひなたぼっこしている時に「ぼくは、ふたつなんだ」と思ったのが最初であったと思っていたが、こちらにも書いた通り、ひなたぼっこをしていたのは1歳の頃からであり、「ふたつなんだ」という「記憶」は、反復体験されたことと「ふたつ」という言葉が結びついて作り上げられたフィクションであったと考えるのが正しいのかもしれない。

 2歳の頃、三輪車で遊んでいた頃の記憶はかなりはっきりしているのだが、これも、アルバムを手がかりに再認ができる程度で、そこで何をしていたかという具体的な中味までを思い出せるわけではない。

 みなみらんぼうさんが話しておられたように、幼少時の記憶というのは、ずっと後になって、子どもと一緒に散歩をした時、あるいは、昔、実家の庭に咲いていたのと同じ花をどこぞの庭先で見つけた時などにふと思い出されるものである。また、これは単に、記憶が蘇るというものではなく、もともと残っていた記憶が、人生のストーリーの中で特別に意味づけされる時に、鮮明に浮き上がってくるような性質のものではないかと思ってみたりする。




 私自身にとっては、みなみらんぼうさんというと、音楽関係よりむしろ山歩きのほうで有名な方という印象が強い。残念ながら参加できなかったが、昨年夏には確か、ノルウェイ最高峰登山同行ツアーの募集があった。今年の夏はどちらに行かれるのだろうか。