じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



2月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真] 農学部農場の菜の花と朝霧。1月26日に掲載した写真と同じ菜の花だが、商品価値が無くなったため、すでに引き抜かれ、有機肥料として畝の間に捨てられている。ところが2月に雨が多かったこともあって再び根を下ろし、花をさせて続けている。


2月21日(火)

【ちょっと思ったこと】

芽の出たタマネギから何を思うか

 いつもより早目に、NHK「ひるまえ岡山」を視ながら昼食をとっていたところ、番組の終わりのほうで、芽を伸ばしたタマネギを描いた絵手紙が紹介されていた。

●段ボール箱の中に残っていたタマネギが、水も与えないのに芽を伸ばしており、これを見て生命力のたくましさを感じ、私も頑張ろうと思った。

というような、作者からのメッセージが寄せられていた。

 そのあと、洗濯物を干していた妻に「段ボール箱の中のタマネギが芽を伸ばしているのを見たらどう思うか」と訊いていたら、「可哀想だからプランターに植えてあげるわ」という答えが返ってきた。

妻:あなたならどう思うか当ててあげましょうか。
私:うん、当ててごらん。
妻:あなたならたぶん、「おや、こんな所でタマネギが芽を出しているぞ、勿体ないことをした。タマネギの管理をちゃんとしろっ!」って怒り出すに決まっているわ。
私:そりゃ、時と場合にもよる。しかし、可哀想だから植えてやる、なんって言っても結局食べてしまうんじゃないか。本当に可哀想なら野菜も魚も肉も食べられない...。

けっきょくのところ、芽を伸ばしたタマネギを見てどう感じるかというのは、それを見た時の文脈と、その場の雰囲気に依存するのではないかと思う。絵手紙を描いた方がそのタマネギをどう扱ったのか興味が持たれるところである。

【思ったこと】
_60221(火)[心理]事実であることはどれだけ重要か(1)

 このところ冬のソナタのことばかり書いているが、このドラマを観たことがいくつかの転機となったことは間違いない。
 その1つは、事実であったことはどれだけ重要なのか、を考えるきっかけを作ってくれたことである。

 言うまでもなく「冬ソナ」は徹頭徹尾フィクションであり、事実のように見える映像もすべて俳優によって演じられ、NGの撮り直しを重ねた末にOKとなったものである。

 社会構成主義の影響を受けつつあるとは言え、これまでの私は、事実の正確な把握と、因果関係の検証に関心を持ち続けてきた。そういう中で、作り事のシナリオと映像でああいう素晴らしい世界を描けるということを実感したのはショックであった。合わせて、事実ということの意味を改めて考え直すきっかけにもなった。




 「事実」と言えば、昨年12月28日に最終回となった「プロジェクトX」(2005年12月29日の日記参照)は、徹頭徹尾、事実を正確に伝えようとした番組であった。だからこそ、淀川工高合唱部を扱った番組で過剰演出があったことが大きく批判されたのであった。

 では、フィクションではなく事実であったということは、視聴者にどういう効果を及ぼしているのだろうか。最終回の時に寄せられた感想(12月29日の日記参照)には、
  • 私達の隣に居るような人がスゴイことをやっている。届かない世界ではない。
  • 勇気をもらった。
  • 自分たちの悩みが小さなことに見えてくる。
  • 夢はかなう。諦めずにやり遂げれば成功する。
  • まだできるんじゃないか、というやる気にさせてくれる。
  • 戦後日本のサクセスストーリー(成功物語)という部分よりもむしろ、人々の工夫と努力の積み重ねに、自分の今までの過去を重ね合わせて感動する。
といったものがあった。しかし、よく考えてみると、視聴者がそういう感想を持てるのは

●これは現実に起こったことだ。だから、これから先、自分自身でも起こるかもしれない。

という、暗黙の「一般化」が行われているためであることに気づく。だから、もし、それがウソであったり過剰演出であったりすると、視聴者はたぶん「やっぱり、そんなこと起こるはずが無いよ」とか「本当の話だと信じていたのに裏切られた」というように反応することになる。

 しかし、さらに冷静に考えてみるに、あることが事実として起こるためには、十分原因がすべて揃う必要がある。その中には、物事の本質を反映した原因もあるが、全くの偶然が重なることもある。従って、あるストーリーが事実であることを確認したからといって、それゆえに、視聴者自身への一般化が保証されたことにはゼンゼンならない。極端に言えば

●宝くじの当選確率が1000万分の1だという話を聞いても、当たる気はしない。しかし、隣の家の人が1等を当てたという事実を知ると、何となく、自分も当たるのではないかという気になってくる。

というのと同じ効果にすぎないと言える。

 では、事実であると確認することは無意味なのか。これはもちろん、その情報をどの場面で利用するのかによって全く異なる。刑事事件では、事実を確認せずに被告を有罪にすることはできないし、科学研究では事実を偽ればそこから先には進めない。個人の人生に利用する場合でも、実際に起こったことを否定することは不適応に繋がりやすいし、カルト宗教にハマる恐れもある。

 ということもあり、事実であるか否かを確認することは、人生を有意義なものにするためにはやはり大切。但し、もっと大切なことは、個々の事実をどうつなぎ合わせ意味づけしていくかということだろう。その際に、科学的な因果性を重視するか、本来無相関の事象をあえて関連づけて解釈することにどれだけのメリットとデメリットがあるのか。このことについて、「ナラティブ」、「強化としての意味づけ行動」をキーワードに考えていきたいと思っている。