じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真] 昼過ぎに大学の東西通り、落葉樹の葉が冬空に銀色に輝いていた。とっくの昔に緑を失い、葉をつけている意味が無いように思う。なぜ落葉しないのか不思議だ。



1月29日(日)

【ちょっと思ったこと】

テレビとラジオの、のど自慢

 日曜日の昼は家族で外出。車のラジオのスイッチを入れたところ、ちょうどNHKのど自慢をやっていた。18番の女性(高校生?)が歌い始めたら、妻や娘が「上手ねえ。この人プロじゃない。」と驚く。予想通り、この人が今週のチャンピオンになった。その一方、テレビで見る時に比べると、下手人の歌い方もはっきり分かる。出場者のパフォーマンスや表情が見えないラジオの特徴が実感できた。

【思ったこと】
_60129(日)[心理]医療・看護と福祉のための質的研究セミナー(11)まとめ、ライフストーリー研究の重要性、ナラティブセラピー

 1月15日午後に大阪府立大中百舌鳥キャンパスで行われた

医療・看護と福祉のための質的研究セミナー「あなたにもできる質的研究:着想から投稿までのノウハウを教えます」

の参加感想の11回。この日記で何度も述べているように、学会や各種セミナーに参加した時の感想は、2週間以内に完結させるように心掛けている。今回も、これをもって最終回とさせていただく。

 さて、この連載の前半で田垣正晋氏の基調講演について感想を記した、御本人からメイルをいただいた。御本人から御許可が得られたので、その一部を紹介させていただく(改行箇所などを一部改変、【 】内は長谷川による補足)。
 私自身は、恥ずかしながら、量的研究を読めても、やったことがなく、もしかすると「敗北主義」から質的研究を始めてしまい、結果的に、どうにかなったのでは、と反省しています。ちなみに、質、量、ともに、研究方法論は、外国語と同じだと思います。

英語を例にしますと、
  • 当該方法論に基づいて実際に研究をして書かれた論文を読める=リーディングやリスニング
  • 当該方法論に基づいて実際に研究をして論文を書く=ライティングやスピーキ ング
となるとおもいます。前者は修士課程以上の院生ならば、必須ではないかと思っています。一方後者は、いくら学んでも、使わなければ、忘れてしまう、ために、質、量双方で恒常的に「書ける」ことは、相当大変なのではと思います。

ところで、インタビュー依存と観察軽視(回避)は、私の属する社会福祉学科では、深刻です。学生諸氏は、知的障害者や精神障害者など、言語報告に支障がある人々に強い関心を持っているにもかかわらず、観察技法を学んでいないために(我々教員の責任が大きいのは当然ですが)、援助者や家族にインタビューをして、卒論を書きます。
【長谷川の感想】また、福祉・医療場面でも同様であって、インタビュー結果を分類・関連づけしたり、そこから仮説生成するだけで福祉行政に有効な提言ができるものだろうか。このあたりの疑問を解決できればと思った次第である。
というところで、私も同様の問題意識を持っています。
アカデミズムと政策現場との単純な二分法はつつしまねばならないかもしれませんが、後者にいる人々が納得できるような、方法(論)は、前者とはやや異なると思います。今、思っているのは、行政がする「実態調査」や「ニーズ調査」等の、施策立案のための調査は、厳密には、仮説生成だと思います。近隣の市の審議会で、グループインタビューやアンケートの企画をしている経験上、行政職員は、仮説検証というだけの、「仮説」を、調査の前にたてません(たてられない)し、まして、検証、したりしていません。もっといえば、調査をするだけで終わってしまい、仮説生成をして、「こういう結果がでたから、こういう施策をしよう」という行政は、私の経験上、少数だとおもいます。
 ご丁寧なお返事をありがとうございました。

 ところで、田垣氏は、基調講演の最初のほうで「障害受容」や「ノーマライゼーション」という概念に疑問を呈しておられた。御講演の中だけではその理由がイマイチ分からなかったのだが、会場で同時に配布された

●田垣正晋(2004)身体障害者の障害の意味に関するライフストーリー研究の現状と今後の方向性 人間性心理学研究, 21(2), 198-208.【こちらから閲覧可能】

およびその他の論文を後日拝読し、その趣旨を理解することができた。「ノーマライゼーション」に関しては、確か、基調講演の中でも、西欧先進国型の発想であると指摘されていたように思う。

 じつは私自身、遅ればせながら最近になって、生涯発達心理学やライフストーリー研究の重要性を認識するようになった。私がこれまで考えてきた「能動主義に基づく生きがい論」というのは、いま生きている瞬間において、やる気、生きがい、達成感を引き出す行動分析のモデルであって、この考え方は決して間違っていないと思う。しかし、それだけでは長期間にわたる人生の変遷を意味づけることができず、いわば、独立した短編小説集のようなモザイク的な生き方しか提供できない。

 とはいえ、人生のそれぞれの過程で獲得されること、喪失を補うもの、変化の多方向性を規定するモノは、おおむねその状況での行動機会と強化随伴性に依存しており、行動随伴性を抜きにして意味づけを行ってもフィクションの世界になってしまうのではないかという気がする。また、長期的なスパンにおいて、その間に経験したことや出来事を意味づけ、関連づけするというのは、信念や態度にも関わる1つの行動であって、これは、
  • Guerin (1992). Behavior Analysis and the Social Construction of Knowledge. American psychologist, 47(11), 1423-1432.
  • Guerin (1994). Attitudes and Beliefs As Verbal Behavior. The Behavior Analyst, 17, 155-163.
など、Guerinがスキナーの言語行動理論を発展させる形で展開したアイデアでより生産的に対処できるのではないかと私は考えている。このあたりのことは、私の、次回の紀要論文に記したいと思う。

 なお、田垣氏の論文の趣旨からは外れるが、ナラティブセラピーについては私は今まで、その効果に対して懐疑的であった。ストーリーを書き換える程度のことで生き方が変えられるとは到底信じられなかったからである。

 しかし、つい最近、冬のソナタの最終部分のシナリオを書き換えるなどという試みをやってみて、ナラティブセラピーの効果についてもいくらか確信が持てるようになった。

 「冬ソナ」は作り事のドラマにすぎないが、それにハマってしまって自分の人生の一部であるかのようにその展開が気になり、なおかつその一部の展開に納得ができなかった場合、自分なりにシナリオを書き換えることでやっと安心することができた。ドラマと異なり、現実の人生では、実際に起こってしまった出来事をカットすることはできないが、何も、不快な体験のすべてを自分のストーリーに組み込む必要は無い。中途障害や死別といった変えられない現実は受け入れるとしても、もはや済んでしまった失敗、あるいは失恋体験のようなものは、場合によってはカットしたほうがよい。このあたりのことも、次回の紀要論文で触れようかと思っている。