じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 大学構内の片隅に咲くヤツデの花。厳冬のこの季節が見頃。昨年、上海の空港に立ち寄った時、ヤツデが大量に植えられている場所があるのが目に留まった。日本の空港やホテルでも、洋物の観葉植物ばかりでなく、ヤツデのような東洋風の植物の鉢をもっと置いてもいいのではないかと思う。但し、実が熟すと悪臭を放つので、早めに実を取り去ることが必要。


12月21日(水)

【ちょっと思ったこと】

ヒューザーの語源

 構造計算書偽造問題で連日取り上げられているマンション開発・販売会社の「ヒューザー」であるが、これまで、なんで社名がカタカナなのか、あまり気にもとめなかった。

 昨日たまたまニュースの映像を視ていたら、「HUSER:Human User Company」が語源であることに気づく。なるほど、「HUSER」を「フーザー」ではなく「ヒューザー」と読ませるのは、「ヒューマン」に由来しているためだったのか。

 今回の事件が報道された時、あまり聞き慣れない社名だと思ったが、ウィキペディアによれば
  • 1982年 - 設立(恒和不動産株式会社)
  • 1983年 - 株式会社マンション流通センターに改称
  • 1985年 - 株式会社ハウジングセンターに改称
  • 2003年 - 株式会社ヒューザーに改称
というように何度か社名を変更していることが分かった。

【思ったこと】
_51221(水)[心理]高齢者から“死にたい”と言われた時

 少し前の卒論直前発表会の時、介護相談員が利用者から「死にたい」と言われた時にどう対応するかというような話題が取り上げられた。

 こういう相談を持ちかけられることは、相談員にとってもストレスにはなるが、とにかく、内容はさまざま、抑うつが重くなってそういう言葉になる場合もあるし、単なる不平の表明である場合もあれば、もう少し気にかけてもらいたいと注意をひくための戯言である場合もある。従って、そういう言葉が発せられた状況、文脈を詳細に分析して、ケースバイケースで対応していくことになるらしい。

 この話題が出た時にまず私が思ったのは、相談というやりとりのなかだけで、利用者を前向きな生き方に向けていることができるのかどうかという点であった。言葉だけで励ましても効果は無い。事実として失われたものを取り返すことはできない。ダイバージョナルセラピー関連記事でも書いているように、利用者が守られるべき最も大切な権利は、「自分から能動的に働きかけ、かつそれが有効な成果を上げている」という状態を保つことである。衣食住に不自由なく、受身的な娯楽(テレビや慰問)を受けていても、能動的な行動が強化される機会が奪われていたら不満は募るし、抑うつ状態に陥りやすい。「死にたい」と思う原因ばかりに目を向けるのではなく、そういう気持ちをどこかへ押しやり忘れさせてしまうような行動の場をどう実現するのかという点にもう少し目を向けてもらえたらと思う。




 以上述べたことをまず前提とした上で、それでもなお「死にたい」と言われた場合はどうすればいいのだろうか。もちろん、立場上、「死にたいなら、死になさい」とは言えないだろう。しかし、ある程度の年齢に達したら、「死」を絶対に避けるべきものとして嫌がったり避けようとしたりするのではなく、「まもなく死ぬ」ということを肯定的に受け入れた上で、その時期が来る時までの間に、何かやり残したことは無いか、もう少し整理しておきたいことはないか、という「美しい最期」を飾るためのサポートをするという選択肢があってもよいのではないかと思う。

 そう言えば、今朝のNHKニュースでは、インターネットに自殺を予告する切迫した内容の書き込みがあった場に合、接続業者が書き込んだ人の連絡先を警察に伝える制度が始まってから2カ月が過ぎたが、この2か月間に、あわせて9人が保護されたことが、警察庁のまとめでわかった、というようなニュースを伝えていた。ここでいう自殺予告というのは、おそらく若者によるものが大半ではないかと思う。若者の場合は、まだやり直しができる、いくらその時に死にたいと思っても、あとで別の人生を歩んだ時には、やっぱり死ななくてよかったと思うこともあるだろうから、とにかく思いとどまらせることが絶対的に必要であろうとは思う。しかし、平均寿命をある程度超えた人が「死にたい」と望んできた時には、もう少し別の対応があってもいいのではないかなあと思う。

 それから、これも何度か書いていることなのだが、高齢者のケアに関する研究発表には、不思議なほど、宗教的関わりについての記述が少ない。公的介護制度の制約上、宗教の意義について語ることは禁句になっているのだろうかと思うほどである。私個人は無神論者ではあるが、高齢者の人が宗教を拠り所にして「美しい死に方」を志向していくことに対しては、もっと積極的なサポートがあってもよいのではないかと思っている。