じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真] クチャのキジル千仏洞入り口にある鳩摩羅什(くまらじゅう、クマーラジーバ)の像(写真左)。写真右は、近くで遊んでいた男の子。足の組み方がそっくり?


5月20日(金)

【ちょっと思ったこと】

色即是空 煩悩是道場

 5月15日に放送されたNHK新シルクロード第5集 天山南路 ラピスラズリの輝きをDVDハードディスクに録画していたが、忙しくてなかなか視る機会がなかった。昼食時や夕食時などに少しずつ再生し、やっと最後まで視ることができた(1981年放送分については5月16日の日記に感想あり)。

 番組のタイトルのラピスラズリというのは青色の顔料であり壁画や遺跡の紹介だろうと思って見始めたところであるが、実際の主たる内容は、インド仏教の主要経典のすべてを中国語訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)の半生や、日本の仏教への影響などを扱ったものであり、松平アナのナレーションの影響もあって、「その時歴史が動いた:鳩摩羅什」編といってもよいような感動編であった。

 5月16日の日記にも書いたように、クチャには2003年12月30日に訪れたことがあった。もっとも、私はもともと、遺跡や壁画のたぐいには興味が無く、もっぱら大自然の景観を堪能することを目的として旅行に出かける傾向がある。あの時の旅行の主たる目的は、タクラマカン砂漠をこの目で見ることであり、クチャは単なる通過点に過ぎなかった。クチャのキジル千仏洞やクムトラ千仏洞を訪れた時にも、ガイドさんの説明はろくに聞かずに、洞窟の外側の山や川や植物の写真ばかりを撮っていた。

 キジル千仏洞の入り口には上の左側の写真に掲げた像があったが、どこの誰なのか全く関心がわかず、ガイドさんの説明もろくに聞いていなかったこともあって、あれがかの有名な鳩摩羅什の像であったというのは、今回の番組で初めて知った次第である。

 鳩摩羅什についてはウィキペディア旅研など各所で解説されているのでここでは詳しく触れないが、とにかく、仏教を東アジアに伝えた人と言ってもよいくらいの偉大な人物である。仏教というと、孫悟空たちを弟子に引き連れた三蔵法師(歴史上は玄奘三蔵)がインドからお経を運んで広まったというイメージが強いが、「色即是空」などの漢訳は、鳩摩羅什の独自の訳が定着したものである。なお、ウィキペディア・玄奘三蔵の項に
玄奘の翻訳は、よりその当時の中国語にふさわしい訳語を新しく選び直しており、それ以前のクマーラジーバ(鳩摩羅什)らの漢訳仏典を旧訳、それ以後の漢訳仏典を新訳と呼ぶ。一例として、『般若心経』も彼が翻訳したものであるが、この中で使われている観自在菩薩はクマーラジーバによる旧訳では観世音菩薩である。サンスクリット語の原語「アヴァローキテーシュヴァラ」は「自由に見ることができる」という意味なので、観自在菩薩の方が訳語として正確であり、また玄奘自身も旧訳を非難しているが、訳文の流麗さは旧訳に譲るといわざるを得ない。
とあるように、鳩摩羅什の訳には一部誤訳もあるし、彼自身がこっそり?と忍ばせた独自の概念も含まれていると言われるが、流暢さの点では鳩摩羅什訳がすぐるという評価は他にもあるようだ。リズムに配慮した訳というのは、ひょっとしてキジ音楽の影響だろうか。

 今回の番組によれば、日本にも大きな影響を与えた末法思想、無常、極楽浄土などの思想は、鳩摩羅什によって生み出されたものであるという。インドで明るさをもって表現された涅槃であったが、異国に蹂躙され続けたキジ国では釈迦亡きあとの救いの無い時代の象徴となった。聖徳太子の世の「四天王をもって国家を鎮護する」という思想も、この石窟の涅槃像を見守る四天王に由来するらしい。そうか、あそこで見学した石窟の奥にはそれぞれ、涅槃像の跡があった。特に気にもとめずに、洞窟探検の気分で一周してしまったが、日本への影響を知っていればもっと深い感慨にふけることができたかもしれぬ。

 この他、番組では、サンスクリットの原典には無い想像上の動物「共命(之)鳥(ぐみょうちょう)」を阿弥陀経の訳に含めることで善と悪とを併せ持つ人間の心の矛盾と葛藤を象徴させたこと、また、「煩悩をしずめることが理想の境地」とするインドの思想に対して、「煩悩是道場」つまり「煩悩の中にも悟りがある。悩めるからこそ救いがある」という考えを忍ばせたことなどが紹介されていた。

 人類普遍の思想といっても、やはりその時代の背景、個々人の暮らしぶりや階層と無関係ではいられない。今の世の中は、鳩摩羅什よりは玄奘三蔵の時代に近いようにも見えるが、フリーター増加や「希望格差社会」などという言葉を聞くと、個々の人生のレベルではむしろ鳩摩羅什に近いところがあるのかもしれないという気もする。