じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 鉢植えのチューリップが咲き始めた。品種は不明。鉢植え用の球根セット処分品として売られていたもの。


3月28日(月)

【ちょっと思ったこと】

独り暮らしは嫌だ

 家族全員が旅行に出かけたため独り暮らしの生活が始まった。独身時代なら一人で何でもこなすだけの生活力のあった私であるが、歳をとったせいか、面倒でたまらない。

 まず、食事だが、炊飯器は使わず、毎回、パックご飯を電子レンジで温めて食べている。

 食器洗い機の使い方が分からないので手で洗っているが、いちいち食器棚に戻すのが面倒なので、いつも同じお皿ばかり使っている。

 我が家の洗濯機には、お風呂の水を吸い上げてすすぎに使う機能があるのだが、昨日洗濯した時は、水を全く吸い上げていなかった。

 電気代節約のため、自分の居ない部屋の照明はすべて消してしまう。結果的に家の中が文字通り暗くなってしまう。

 ふだんは歩いて通勤しているのだが、車や自転車を使うことが多くなった。買い物に出かける必要があるためだ。

 そういえば同じようなことを書いたはずだと思ってコンセプトサーチで検索したところ昨年8月14日に殆ど同じ記述があった。しかしその時よりさらにQOLが低下しているようにも見える。

【思ったこと】
_50328(月)[教育]京大・第11回大学教育研究フォーラム(6)大学評価の『百年の大計』を問う

 表記のフォーラムのうち、3月22日午後に開催された大会企画フォーラム

●大学評価−評価する側の論理−

についての感想の最終回。

 フォーラムの最後に質疑の時間が設けられていたので、例によって私も一言。

 私の質問は大体以下のような趣旨であった。
先日、東京・八王子の大学セミナーハウスで行われたセミナーでも話題になったことでありますが、「我が国の高等教育の将来像」答申ではせいぜい15年先の将来像しか描かれていません。ところで、最近、成果主義の弊害として、短期的に達成可能な数値目標ばかりに目を向け、長期的視点が欠落してしまうというようなことが指摘されています。大学評価に熱心に取り組むと、短期的に達成可能な改善ばかりに注意が向いてしまって、五十年、百年というような長期的な視点が失われてしまう恐れがあるように思われますが、長期的なビジョンという点についてお考えをお聞かせいただければ幸いです。
 私のこの質問に対しては、登壇者の方ほぼ全員から簡単なお答えをいただくことができたが、総じて長期的な展望までは考えに入れていないというような内容であった。記憶に残っている範囲でメモしておけば、その趣旨は
  • 評価は短期的かと問われればYESと答えざるを得ない。
  • PDCA(Plan→Do→Check→Action)マネジメントサイクルがしっかりしていれば、将来の可能性もおのずと開ける。
  • 特色GPでは、短期的視点に陥らないように配慮した。
という程度であったように思う。

 2月7日の日記にも記したように、長期的な視点が示せない原因としては
代議制民主主義の社会にあっては、内閣は3〜4年で交代し、それとともに基本政策自体が大きく揺れ動いていく。そういう中では、30年先、あるいは百年の大計というのは、政策策定の指針として殆ど意味をなさない。もちろん、世界全体の変化が流動的であり、先のことは読もうとしても読めないという事情もある。
という背景がある。また、適度な競争的環境のもとでPDCAマネジメントサイクルを重ねていけば、大学教育は必ずよくなるものだという、新古典派経済理論的な素朴な期待もあるように思う。

 しかし、そうは言っても、これでは、いつまでたっても、日本の将来が見えてこない。いま現在あるいはこの先10年くらいのニーズに対処できるという程度の人材養成しかできない。

 2月7日の日記にも記したように、日本やドイツの強大化を恐れるアメリカの、日本経済弱体化戦略が着々と成果を挙げているという声もある。英語教育なども、ヘタをすれば、アメリカ人の発音や慣用表現の物真似、そして、一部の熟達者を除く大多数の英語学習者に無力感や劣等感を与えるだけの教育に終わってしまう恐れがある(こちらの3.1参照)。

 対アメリカばかりではない。ちょっと旅行してみれば一目瞭然であるが、最近の中国の経済発展はめざましいものがある。今や、アメリカと肩を並べる大国になったといってもよいだろう。そういう中で、日本にはどういう発展の道があるのか、そのためにはどういう人材を育成する必要があるのかという議論が無いままに、目先の改善を繰り返しているだけでは、日本の将来は危うい。但し、これは個々の大学が個別に考える問題ではない。国家レベルでの真剣な検討が求められるところではあるが、今のような何でも公開の審議会の中では、「アメリカや中国との対等関係を保つための国家戦略」のような検討は所詮無理であろうという気もする。

 フォーラムの最後では、「大学評価はけっきょくのところ、車検のようなものだ。」という総括的なご発言があった。しかし、車検というのはすでに作られた車が、今しばらく先まで安全に走行できるかをチェックするだけの検査であって、新しい車に作り替える力は持っていない。つまり、「大学評価車検論」が正しいとすると、真の大学教育改革は別の手段で実現していかなければならないことになる。しかしその将来像が、大学教育政策の研究者によって示される可能性はあまり期待できない。最近、NHKでも特集が始まっているようだが、このさい明治に学ぶということも必要ではないかと思っている。

 次回に続く。