じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真]  My風景Top100(大サイズ写真アルバム)の第5作は、ネパール・パタンの朝。1979年1月6日撮影。937×1288ピクセル。168KB。パタンは、カトマンズから5kmほど離れた所にある古都。エベレスト・トレッキングの帰り、たまたまパタンのホテルに宿泊したので、朝霧に包まれた街の中を散歩することができた。

なお、大サイズ写真は原則として翌日以降、こちらに移動します。


11月25日(木)

【思ったこと】
_41125(木)[心理]日本理論心理学会第50回大会(13)日本発の理論を考える(その8)心理学の問題か、日本の問題か

 日本理論心理学会第50回大会「日本発の理論を考える」シンポについての感想の最終回。このシンポは11月6日に開催されたもので、すでに三週間が経ってしまった。「シンポや講演会に参加した時には、その感想を一週間以内にWeb日記にまとめる」という自己ルールを大きく外してしまった。今後はぜひ改めたいところである。

 さて、フロアからの質問として発言させていただいたことでもあるが、今回のテーマ「日本発」については、私は、もう少し問題を絞って検討したほうがよかったのではないかと考えた。つまり、ここでは「日本発が無い」という暗黙の了解のもとに議論が始まったが、それは、日本の学問、日本の大学教育全般について言えることなのか、それとも、心理学領域に限って言えることなのか、もう少し吟味してみる必要があるのではないか、ということである。

 フロアからの発言としても申し上げたが、心理学に(たぶん)近い領域では、例えば、森田療法、土居健郎(たけお)の『甘えの構造』、霊長類学や今西錦司の理論などは、世界に誇る「日本発の理論」と言えるように思う。今回は主として実験心理学の領域で「日本発」が少ない原因が考察されたようであるが、それはむしろ心理学固有の問題ではないか、というのが私の考えである。但し、この場合も、心理学という学問の研究対象や方法そのものに起因するのか、日本における心理学研究・教育のシステムそのものに起因するのかは、さらに検討が必要である。




 心理学領域そのものにあまり発見が無いということは、私自身、学生時代から感じていたところである。私が修士課程の頃、ある先輩は「心理学には発見が無い」と語りながら超心理学の研究に取り組んでおられた(ちなみに、日本超心理学会はこちら)。また、文化人類学や質的研究など、当時の実験心理学とは異なる領域に進んだ先輩もおられた。

 もともと心理学というのは、人間を対象とした学問である。どんな人でも、自分の心理についてはそれなりの関心を持っており、自分流の「心理学」を組み立てている。そこに「科学的」方法を持ち込んだところで、行動リパートリーは限られているわけだから、そんなに新しい発見が生まれるわけではない。誰もが当たり前と思う現象に理屈をくっつけて簡潔に記述・解釈するくらいのことしかできないのが普通だ。強いて言えば、珍しい錯視や、主観的確率判断の偏りなどは、意外性が大きい分、何かが発見されたと受け止められるが、行動分析学が提言するようなパフォーマンス・マネジメントなどは、有用性・有効性で評価されるものであって、何が発見かと言われても困ってしまう。




 いっぽう、日本における心理学研究・教育のシステムにも問題があることは、これまでの連載の中でも述べた通りである。やはり、卒論、修論、博論というそれぞれのステップでは、研究しやすいテーマ、研究しやすい方法というものがあることは否定できない。毎年11月末というこの時期になると、もはや卒論テーマとして何が妥当かなんていうことを考える余裕はない、なりふり構わず締切に間に合うように誘導していくほかはないのである。じっさい、「どういうテーマなら意義深いか」ではなく「どういうテーマにしたら実験のレールに乗るか」という形で指導せざるをえないことがたびたびあった。

 これが卒論だけならいい。しかし、修論、博論、さらには、就職や昇任のために論文を揃えなければならないという切迫した状況に追い込まれると、そう簡単にはパラダイムシフトなどと言っていられない。

 ということで、多くの宿題を残しつつ、今回のシンポについての感想を終わらせていただくことにしたい。