じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真]  近くの空き地で、一株のセイタカアワダチソウが花を咲かせていた。金網の向こうは、もともと多数のセイタカアワダチソウが生い茂っていたが、その後全面アスファルト舗装された。いま咲いているのは、ほんの僅かの隙間から芽を出した最後の生き残りである。

 進化論関連本で「適者生存」と「運者生存」という言葉を聞くが、運者生存というのは個体レベル(←本来は種レベルだが)ではこういうことを言うのだろう。

※右の写真は、2001年10月16日に撮影した、同地点の様子(左の写真の金網の奥の位置で撮影)。


11月23日(火)

【ちょっと思ったこと】

オレオレ詐欺と裁判所支払督促詐欺

 岡山市に本店を置く中国銀行は11月18日より、ATM画面への「オレオレ詐欺注意喚起メッセージ」の表示を始めたという。オレオレ詐欺といっても最近では、警察や保険会社を装った集団による巧妙な手口が増えており、騙される寸前だったという知り合いの話も聞いている。

 オレオレ詐欺や架空請求では、犯人はATMによる振込を指示してくることが殆どであるという。騙された側も「夫が逮捕されている」などと信じ込んでいるため窓口からの振込をためらう。そういう意味では、注意喚起メッセージの効果は大きいのではないかと期待される。

 ところで、これに関連して、最近では、裁判所支払督促を悪用した詐欺犯罪が発生しているというニュースを聞いた。こちらにもあるように、
...督促状を無視すると、簡易裁判所からの小額訴訟の訴状と第一回口頭弁論の期日を記した呼び出し状が特別送達で届く。これも無視すると、裁判を欠席することになる。だが、民事裁判では通常、欠席すると言い分が伝えられないまま即日審理が終わり、敗訴してしまう。不当請求を行なう業者はこの判決を理由に、“正当な請求”を行なうことになるという。
という手口である。 通常、架空請求などは封筒ごと破り捨ててしまえばそれで済むが、裁判所からの特別送達を無視すると身に覚えの無い「敗訴」を決定されてしまうことになるというから恐ろしいものだ。こういうケースでは、面倒がらずに国民生活センターに早めに相談することが望ましい。

 ま、架空請求などというのは、金を払う時点で請求者がある程度見えてくるわけだから、おとり捜査を活用し、かつ銀行口座不正利用者と詐称者に厳罰を科すようにすればかなりの程度で防止できるはずだ。一刻も早い、法的な対応が求められる。





今場所の大相撲は面白い

 23日は久しぶりに大相撲中継をじっくりと観た。11月19日の日記で「客の入りが少ないのは気の毒だ」などと書いたが、場所のほうは盛り上がっていると思う。

 10日目(22日)の時点で全勝は朝青龍、魁皇、若の里、白鵬、露鵬が1敗で追うという展開になっていたが、11日目になって、魁皇は白鵬に、露鵬は高見盛に敗れて2敗。このほか2敗力士には琴欧州が残っている。

 11月19日の日記にもちょっと書いたが、重大な怪我でも無い限り、近い将来、白鵬時代が到来することは必至。その前に、魁皇が「大相撲史上最後の日本人横綱」になるかどうかが注目されたが、白鵬に敗れたことでその夢はかなり萎んでしまった。ま、魁皇は、なかなか優勝できない阪神タイガースと似たところもあり、ある意味では人生の縮図。魁皇と魁皇ファンには申しわけないが、無理に横綱にならなくてもいいのではと思う。

 もう一人の日本人力士、若の里のほうは、俄に大関昇進期待が高まっている。少々皮肉っぽく言えば、「大相撲史上最後の日本人大関」となるかもしれない。

 たぶん、来年の九州場所は、東西横綱が朝青龍と白鵬(いずれもモンゴル出身)、大関に若の里、魁皇、露鵬(ロシア出身)、千代大海。関脇に、黒海(グルジア出身)と琴欧州(ブルガリア出身)といった顔ぶれになるのではないだろうか。

【思ったこと】
_41123(火)[心理]日本理論心理学会第50回大会(11)日本発の理論を考える(その6)具体的現象に目を向けること/査読の練習

 なかなか完結しないが細々と、日本理論心理学会第50回大会の話題。今回は、話題提供4番目の

●無藤隆氏:日本発の理論を考えるために-平凡な研究者がオリジナリティのある研究をするために-

について感想を述べさせていただく。

 無藤氏は、お茶の水大学で長年にわたり教育に携わっておられた経験に基づき、大学院教育の改善についていくつか提言をされた。特に大切な点として、何より、自分の関心のある現象を丁寧に見ていくこと、具体的個別的な現象に注目して、その現象で関心を深めていくことを強調された。また、具体的な現象記述にあたっては、安易に既存の理論で説明せず、むしろ説明できないことに注目するなかで、次第に何か新たな問題設定が浮かび上がってくると論じておられた。これには大いに同感。私自身も、及ばずながら、これまで一貫して、同じような視点で卒論・修論指導を行ってきたところではある。

 論文ばかり読んでいて具体的現象に目を向けないでいると、ある理論的枠組みの中での閉じた対象にしか関心が向かなくなる。そこで行われる「研究」は、理論のための理論、変数をちょっと変えただけの追試、末梢的な変数の探索だけに終わってしまう。心理学の世界では、相変わらず、確実性(信頼性)と、技法や実験計画のオリジナリティだけで評価を得てしまう傾向が根強いので、そういうやり方でも論文は書ける。しかし、10年、20年経って、じつは何も進歩していない、現実からますます遊離していたということに気づく羽目になる。ま、最近はそのあたりの反省もあって、基礎的な分野の学会でも、積極的に現実と関連付けた公開シンポ開催に取り組んでいるようにも思えるが。

 無藤氏によれば、査読の練習にも教育上大きな効果があるという。もっとも、学生に任せきりにしてしまうと、「サンプルが少ない」、「もっと別の統計的検定を使うべきだ」といったテクニカルな批判に終始してしまう。研究の流れ全体の中での良さ、悪さを評価するというのは学生にはなかなか難しい。だからこそ査読練習による成果も期待できる。

 次回に続く。