じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 今年の夏は2つがい4匹の成体のベタ(ショウベタ)を飼っていたが、メスはすでに二匹とも死亡。二匹のオスのうち、繁殖に貢献した赤いオスのほうも一昨日、死んでしまった。ほぼ寿命通りではないかと思う。

 その一方、7月10日の日記で、紹介した赤ちゃんは、合計12匹が順調に育っている。世代交代を果たして本望だろう。


10月13日(水)

【ちょっと思ったこと】

最新日記は生涯「WELCOM」

 10月12日より、Web日記最新版(つまりこの日記)の利用サーバーをSo-netから「geocities.jp」に移転させた。So-netには、統合前のジャストネット時代から通算して7年余りお世話になっていたが、最近では、接続のために利用することは全くないし、10MB程度のホームページスペースでは小さすぎる。思案の末、引越を決意した次第である。

 さて、新サーバーに引っ越しするにあたって迷ったのが、最新日記の「WELCOM.HTM」というファイル名をそのまま残すかどうかという点であった。この「WELCOM」というケッタイな名前については
  • 「welcome」のつもりなら何で「e」が抜けているのか?
  • 日記なのになんで「ウェルカム」なんや?
  • なんで小文字ではなく大文字の「WELCOM」となっているのか?
といった素朴な疑問を持たれる方も多いかと思う。

 7年も前のことなので、一部記憶が定かではないが、確か、このファイル名をつけたのは、ジャストネットのプロバイダ契約をした当初、

●ファイル名が「index.htm」もしくは「WELCOM.HTM」となっているファイルは、別途更新報告を出さなくても、ジャストネットの新着情報に自動的にリストアップされる

というような説明があったためであった。いくらなんでも、日記ファイルが「index.htm」というのはおかしい。「WELCOM.HTM」のほうがそのまま最新日記のファイル名になったというのが唯一の理由であった。

 念のためgoogleで「WELCOM.HTM」で検索してみると、このファイル名を使っているサイトが2980件ヒットした。英語のスペル通りの「WELCOME.HTM」が75万2000件であるのに比べると少ないが、それでもけっこう「愛用者」が居ることが分かる。また、少し古いがこちらには、「WELCOM.HTM」というファイル名が作成される手順が説明されていた。

 少なくとも今の私には、最新日記名を「WELCOM.HTM」としなければならない理由は全く無い。とはいえ、これまでのログの中には、このファイル名への相対リンクが山ほどある。Mifesを使って全ファイルの文字列を一括変換し、アップロードし直せば修正はできるのだが、それほど手間をかける必要もあるまい。たぶん、私の最新日記のファイル名は生涯、「WELCOM.HTM」のままで続くだろう。

【思ったこと】
_41013(水)[心理]血液型差別番組を考える(10)「僅かな」と「顕著な」の判断基準

 これまでの考察の中で、ひとくちに「血液型と性格」と言っても

レベル1:統計的には有意であるが実用的には役に立たない程度の僅かな差

を問題にする場合と、

レベル2:実用的価値があるほどの顕著な差

を問題にする場合では、扱い方が大きく変わってくると述べた。

 そこで私が言いたいのは、2つのレベルでは肯定や否定の根拠となる証拠の採用の仕方が質的に異なるという点である。もちろん「僅かな差」と「顕著な差」の間は連続しており明瞭な境界があるわけではない。昨日の日記で述べたように、2つのレベルのどちらに属するかは、単なる絶対的な差の大きさではなく、むしろ

(a)差を考慮した場合のメリット、デメリット
(b)差を無視した場合のメリット、デメリット
(c)努力によって変えられる要因であるか

という別の基準に左右される。なお、以上とは別に、

レベル3:生まれつきの属性(性別、血液型、人種など)と結びつけて他人を判断してしまうことの不当性

という第3のレベルの問題があるが、ここではしばらく、触れないことにする。というのは、レベル3だけでレベル1やレベル2の議論を無条件に停止させてしまうことは、地動説に対する宗教的弾圧のように受け止められかねないし、レベル3だけで差別・偏見の危険性を訴えただけでは、レベル2の段階で「血液型ステレオタイプ(=テレビ番組などの一方的な情報によって固定観念を受け付けられてしまうこと)」に陥っている人たちを心の底から納得させることはできないからだ。つまり「血液型性格判断は差別につながるから口にしてはいけない」だけでは血液型ステレオタイプは打破できない。やはりレベル2の段階で、いかにインチキな「実験」や誇大解釈が行われているのかをきっちり指摘することが必要ではないかと思っている。




 さて、いわゆる「血液型肯定論」と「血液型否定論」との論争がいつもすれ違いに終わるのは、レベル1とレベル2の取り違え、もしくは意図的な論点のすり替えに起因していることが多いように思う。

 たとえば、「心理学者は血液型と性格の関連を否定している」などとよく言われるが、これは、レベル2における否定論であって、レベル1の「僅かな差の可能性」を頭ごなしに否定しているわけではない。

 「血液型と性格は関係があるかもしれないが、人間の行動はそれだけで決まるものではない。他の多種多様な要因が複雑に働いている以上、血液型だけでタイプ分けするのは間違っている」と主張する場合も同様である。この場合も、レベル1における「僅かな差」については肯定も否定もしていない。レベル2における否定論を展開しているのである。

 これに対して「血液型肯定論」の人たちのなかには、レベル1に関する免疫学やら脳やらの「研究」のうち肯定論に都合のよいデータだけを引用して、「否定論」は間違っていると主張する人がいる。ところが、レベル1でいかにも厳密な科学的態度をとっているように見える肯定論者が、レベル2になるとたちまち「批判的態度」を失い思考停止に陥る。明らかにヤラセとわかるような「実験」であっても、血液型による違いに肯定的な結果が得られている限りは「また1つ、肯定論の証拠が増えた」といって無批判に受け入れているのである。そしてそのことを批判されると、「これは、みんなで楽しむためにやっているのです」と居直る。これこそダブルスタンダードというやつだ。最近のテレビ番組の中にもこれと同じ論調が見うけられるように思う。