じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 24日は年休をとって、四国・金刀比羅宮の奥書院特別公開を見に行った。雨が降りやすいとの予報だったが、幸い、一度も傘を開かずに済んだ。写真は、本宮横の展望台から眺める讃岐富士と讃岐平野。


9月24日(金)

【ちょっと思ったこと】

シナリオの選択と確率予想

 各種報道によると、9月20日に発生した台風21号が九州のはるか南を北北西に進んでいる。気象庁の25日6時現在の予想では日本に上陸するかどうかは不明となっているようだが、米軍合同台風警報センターは、24日夜の時点から、進路が九州に向かうという予想を出している。9月26日は日本に大型台風が上陸する特異日と言われており、この日が近いこともあり、今後の進路に目を離せない状況が続いている。

 ところで、私が毎日アクセスしているデジタル台風というサイトの台風21号ニュース・ウェブログに、まことに興味深い記述があった(9月23日付)。
...先日の台風18号の場合と同様、台湾方面に向かうという西進コースに安心していたら、ある日突然北上コースに予報が変更された!となっても慌てないように、その可能性は常に念頭に置いておく必要がありそうです。

 ちなみにこの問題は、予報技術の問題というよりはむしろ、予報円表現の限界の問題と捉えるのが適切だと思います。現在の予報円表現は、ある1つのシナリオのもとでの進路の不確定性(確率)を表現したもので、数学的にはあるシナリオのもとでの条件つき確率とみなせます。ところが、例えば西進と北上という2つのシナリオが想定される場合でも、複数シナリオにおける進路の不確定性を表現する手段がないため、結果的には最も可能性の高いシナリオを選んで予報円を描かざるを得ません。

 これは結果的に、シナリオの変更によって予報が不連続的に変化したような印象を与えてしまいますし、防災の観点からも実際の確率以上の安心を与えてしまうという問題があるように思います。これは統計学的に言えば、混合分布的情報をどう表現するのか、という問題に相当しますが、この種の情報に適した表現方法はどんなものでしょうか。興味深い課題です。
 ここで重要なのは、「シナリオの選択」と「そのシナリオのもとでの確率予想」である。

 暖冬や冷夏などの予想はもちろん、人間の行動予測からプロ野球の最終順位予想まで何でもそうだと思うが、あるシナリオを採択した後での確率予想はそれほど難しくない。しかし、いったんシナリオが変更されてしまうと、当初想定していた確からしさからはまるで違った結果になってしまうということはありがちなことだ。しかも、シナリオは、しばしば、偶発的な出来事によって変更を余儀なくされることがある。

 例えば、大学受験、就職、結婚、などを考えてみても、ちょっとした偶発的要因でシナリオが大きく変わり、その後の人生が予想外の展開を見せるということはよくあることだ。オリンピックの決勝などでも、金メダルをとれるか銀メダルに留まるかは、偶発的要因に左右されることが多いが、そのことによって、引退するか、再度挑戦するかといった将来のシナリオが大きく変わる場合がある。

 引用した通り、混合分布情報をどう表現するのかがすっきりしないと、我々はうまく行動できない。科学万能の時代にあって占いがもてはやされるのは、占い師たちのほうが、シナリオをわかりやすく描いてくれるためではないかと思ってみたりする。

【思ったこと】
_40924(金)[教育]小学生の「天動説」、私も考えを述べる(2)知識として教えるということ

 昨日の続き。「小学生の4割が「太陽は地球の周りを回っている」と思い、3割は太陽の沈む方角を答えられない...」という報道については、調査方法の信頼性が今ひとつ不明であるように思うが、それはそれとして、「知識として教えるべきか」、「体験を通じて学習するべきか」、「体系的に教えるべきか」、といって点で、いろいろな議論を生んだ。

 各種報道によれば、調査を行った国立天文台の縣(あがた)秀彦・助教授らは、都市部ほど正解率に低い傾向があることから、
夕日が沈むのを見るような自然体験が子も親も失われている。情報があふれる一方、テレビやゲームなどに時間を奪われ、身近な現象を学ぶ機会が減っている
と述べ、いっぽう、これに関連して、文科省の御手洗康事務次官は22日の定例会見で
  • 地球の自転や公転についての学習は中学校で、きちんと体系的にすることになっている
  • 自転や公転を体系的に理解するのと、単なる知識として地動説を知っているのとは別
  • 中学校で観察を行い、天体の動きを理解させている。指導要領の全体構造を見てほしい
  • ただ、知識の問題ならば、日常生活の常識としてどこで教えていくか。家庭や大人との会話などで教えていくという問題を、もっと考えることが必要とは思う
と述べたという。

 これらの御発言を聞いていろいろ考えてみたが、まず、「自然体験が子も親も失われている。情報があふれる一方、テレビやゲームなどに時間を奪われ、身近な現象を学ぶ機会が減っている」という見解自体については、全くその通りであり、自然にふれる機会をもっとふやすべきだとは思う。しかしそのことは、「日の沈む方向が分からない」という説明には使えても、「太陽は地球の周りを回っている」という誤答の説明には使えないように思う。なぜなら、大昔の人たちのことを調べても分かるように、自然に暮らす人々が素朴に考える宇宙観はむしろ天動説であり、惑星の動きを簡潔に説明しようとか、万有引力の法則との整合性をはかろうといった強い動機でも無い限り、地動説を実感することはまず不可能であると考えるからだ。「情報があふれる一方、テレビやゲームなどに時間を奪われ、身近な現象を学ぶ機会が減っている」ことによってむしろ予想されるのは、

●小学生たちは、地球が太陽の周りを回っていることを知識としては知っているが、天体現象には殆ど関心がなく、自分の目で惑星を見たことが一度もない

ということだ。この予想に反して「太陽は地球の周りを回っている」という答えが多かったとすれば、別の原因を考えなければならない。単に、質問をよく読んでいなかったとか、選択肢にデタラメに○をつけた結果チャンスレベルでそういう比率になった、ということも考えに入れるべきである。




 さて、そのことはさておき、「知識として教える」、「体験を通じて学習する」、「筋道をたてて体系的に教える」というのはどういうことを言うのだろう。

 世の中には、理屈抜きで教えるほかはない、という知識もある。例えば、ある子どもが、「ニワトリが2人いるよ」と言ったとすると、親は「2人というのは、人間の時に使うのよ。ニワトリは人間じゃないから、2羽と呼びなさい」と教えるだろう。それを覚えた子どもは、今度は猫を見て「あそこに猫が2羽いるよ」と言う。親は「猫は鳥じゃないから、2匹と呼びなさい」と教える...こういう知識は、殆ど理屈抜きで教えられていくに違いない。

 次に、交通安全、火の用心、あるいは誘拐犯罪に巻き込まれないための知識はどうだろうか。これらは「○○しなさい。そうしないと××になりますよ。」という知識(行動分析学で言えば「ルール」)として教えられる。実際に事故や犯罪に遭ってしまったのでは手遅れだから、何が何でも先に教えておく必要があるのだ。そうはいっても、行動に結びつかない知識では困る。だから、リアルな映像、模擬体験、訓練などを通じて、現実に活かせるように工夫しているのである。

 天体現象のようなものは、事故や犯罪に巻き込まれるような緊急性は無く、そういう意味では、知識として急いで詰め込まなくてもよいように思う。むしろ、自分で「不思議」を発見し、身近に体験できる当たり前の現象との整合性をはかっていけるような環境を整えるほうがよい。地球が丸いなどというのは、気象衛星の全体写真を見れば一目瞭然ではあるが、じゃあどうして海の水はどこかへこぼれていかないのか。引力があるというなら、なぜ、空の星は地面に落っこちてこないのか、まず、そのあたりからじっくりと、当たり前と思っていることの整合性を測っていったほうが興味が出てくると思う。