じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真] サンファンの簡易ホテル(写真左)と、近郊の山(写真右)。今回のアンデス旅行の中で、いちばん住みたいと思った村だ。


9月14日(火)

【ちょっと思ったこと】

マナーの猫のウソ

 夕食後、家族が「マナーの猫」というTV番組を視ていた。ガールフレンドをデートに誘うために電話をしたらお父さんが出てきた、という設定であったが、相手の家にかけていることを確認しないなどのミスが続出していた。

 そのシーンが終わったところで私が

そのうち、この家にもああいう電話がかかってくるんだろうなあ。

と言うと、妻が

あなた、そんなわけないでしょ。誰が、家の電話にかけてくるもんですか。

 そうかそうか。ケータイの時代、実家あてにデートの申込みの電話などかけてくるわけがないよなあ。今や、そういうマナーを身につけても全く役に立たない時代になってしまった。

 あとで気づいたのだが、この「マナーの猫」というのは、「学校へ行こう」という番組の一部らしい。先日の血液型差別企画といい、今回の時代錯誤ネタといい、全く、どうしようもない番組だ。といいつつ、毎週のように某家族が視るというのは、それなりの娯楽性があるということか。




今年の残暑はいつまで続く?

 9月14日の岡山は、最高気温33.0度(平年より5度高)、最低気温24.4度(同じく4.1度高)と、真夏並みの残暑となった。新聞記事で各地の気温を見ると、23都市(近畿・中国・四国18都市、その他5都市)で、最高気温が平年を下回ったのは札幌のみ、また、最低気温のほうは、札幌を含めて全都市が平年を上回っており、全国的に残暑傾向が続いているようだ。

 気象庁データで調べたところ、岡山市の場合、昨年も9月15日までは、最高気温30度以上が13日、最低気温25度以上が8日もあって同じような残暑が続いていたが、9月15日に最低気温19.7度を記録して以降は最低気温25度以上の日は現れず、また最高気温のほうも、18日と19日に30度を超えた以外は、30度未満、そして25度未満の日が多くなっており、ちょうど15日あたりで残暑が終わっていることが分かった。今年の場合はどうなるだろうか。

 ちなみに、14日の岡山は前線の南下で一時的に雷雨となり、岡山市北部の運転免許試験場では建物に落雷があったとか。このほか、兵庫県姫路市では、午後1時台に45.5ミリの豪雨を観測した。雷雲が発達するというのは、夏と秋のせめぎ合いのあらわれでもある。15日午後も局所的な雷雨に注意が必要だ。

【思ったこと】
_40914(火)[心理]日本質的心理学会第1回大会(4)行為論/論理実証主義

 日本質的心理学会第1回大会の感想の4回目。午後13時20分から15時20分までに行われた、

●シンポジウム1:他者との出会い 教育のフィールド─出会いを記録する
秋田喜代美・鯨岡峻・佐藤公治・箕浦康子

の後半部分について感想を述べたい。

 シンポ1の2番目は、佐藤公治氏の「教室の風景を表す」という話題提供であった。その中心となる「相互行為分析」あるいは「行為論」については、みちた氏の読書と日々の記録で何度か論評を拝見したことがあったが、近代主知主義への問い直しの1つであるという点を除いては、どうにも難解で私にはまだ十分に理解できていない。また、まことに申し訳ないのだが、私は、毎日、午後2時前後に突然睡魔に襲われることがある。この時もたまたまその巡り合わせにあたり、少々居眠りをしてしまった。ということもあって、ここではこれ以上のコメントはできない。

 ただ、「行為論」が「個の活動と外的世界との間の弁証法的な関係を求める」ものであるとすると、これはまさに、オペラント行動そのものである。次回にコメント予定の、塩瀬隆之氏のご発表の時にも思ったのだが、これらの人たちは、オペラント行動や行動随伴性の概念を全くご存じ無いのだろうか。もし、ご存じの上で「取り上げる価値無し」と考えておられるなら、どこかでそのことを論評して欲しいと思うし、もしご存じないのであれば、一度、スキナーの著作に目を通していただきたいと強く願う次第である。

 余談だが、シンポのディスカッションの時に、なぜ「行為」という言葉を使うのかという質問が出された。じつは、「行動」や「行為」の意味するところは、日本語と中国語でかなり異なっている。こちらにも記したように、中国語で「behaviorism」は「行動主義」ではなく「行為主義」と呼ばれる。佐藤氏の言われる「行為論」は中国語で何と呼ぶべきなのか、何かの機会に伺いたいものだ。なお、私個人は、少なくともスキナーの行動主義に限っては「能動主義」、「行動分析」は「能動分析」としたほうがスッキリすると思っている。行動分析で扱う行動の大部分は、レスポンデント行動ではなく、オペラント行動(=能動)に関するものばかりだからだ。




 さて、シンポ3番目は、箕浦康子氏の「マイクロとマクロの狭間で〜記録されていないことを読み解く〜」という話題提供であった。

 箕浦氏は、まず、「質的心理学」というネイミング自体が気に入らないというようなことを言っておられた。理由は、とにかく「心理学」と呼ぶ限りはどうしたって、論理実証主義的なアプローチがまとわりついてしまう。これに対して、箕浦氏が提唱するのは「解釈的アプローチ」であり、そこでは、どのような問いを立てるかで、現実の見え方は変わってくるという特徴があるという。なお箕浦氏は、「実証的アプローチ」と「解釈的アプローチ」のほうかに「批判的アプローチ」も挙げておられたが、時間が限られていたせいだろうか、この3番目のアプローチについては殆ど言及されなかった。

 ところで、比較目的で取り上げられた「実証的アプローチ」であるが、箕浦氏によれば、そのアプローチには
  • 心理学で支配的な方法論、本質主義的
  • ただ一つの客観的現実を前提として、その現実についての法則定立を目ざす。現実は、誰が見ようと同じに見える「本質的なもの」として実在している。「現代心理学」というようなタイトルの概論書の第一章にはたいがい、そういうことが書かれている。
  • 研究のプロセスとしては、ノイズの除去、因果把握、条件統制、変数操作に重点が置かれる
という特徴があるという。

 しかし、少なくとも行動分析学の視点から言えば、「実証主義的アプローチをとる」ということと、それが、「ただ一つの客観的現実を前提として、その現実についての法則定立を目ざす」ものであるとういことは、決して同義ではないように思う。

 もちろん、行動分析学は、客観世界に関わる個体の行動を研究対象としており、強化や弱化、種々の行動随伴性といった「法則」を分析のツールとしてはいるけれども、強化のヒストリーが個々人によって異なるという点で、個体から見える外界はあくまで「解釈的」となる。箕浦氏が「解釈的アプローチ」として述べておられる「人々が生きている現実は、構築されたものである。思い込みの世界で生きている」というのはまさにその通りであるが、行動分析的に言い直せば、

人々が生きている現実は、強化や弱化のヒストリーによって構築されたものである。人々は、現実とありのままに関わるのではなく、好子や嫌子によって条件づけられた世界の中で生きている

ということに他ならない。あとは、どういう角度からそれを捉えるかという違いだけだと思われる。

 箕浦氏が言われる「どのような問いを立てるかで、現実の見え方は変わってくるという」というのも、決して、実証的な方法と対立するものではないと思う。こちらの論文の【4】という補注にも記したことを再掲するならば、
自然界には確かに法則のようなものが人間から独立して存在する。それは、人類の誕生前から存在し、人類が滅亡した後でも、宇宙の構造が質的に変わらない限り、同じように存在するだろう。しかし、それを人間が認識するとなると話は違ってくる。「科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくだけなのだ。」というのが、行動分析学的な科学認識の見方と言えよう。佐藤(1976)は、この点に関して、科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」という考え方を示している。
ということになるのである(なお、上記引用中の「佐藤(1976)」は、今回の話題提供者のお一人の佐藤公治氏ではなく、今年度の行動分析学会年次大会会長の佐藤方哉氏のほう)。

 昨日の日記にも記したように
障害児教育や高齢者福祉の問題を考えた時には、我々はしばしば、あるサービスを導入するか、続けるか、中止するか、別のサービスに変更するか、といった判断を迫られるのも事実である。
 その際には、好むと好まざるに関わらず、再現性や反証可能性を重視した効果測定は避けがたい。客観性を抜きにして、どうやって結論を出せるのか。声の大きい人が勝つのか、あるいは、どの主張が共感を呼んだかだけで決めてしまってよいものか。
という問題は厳として存在する。「実証主義的アプローチをとる」ということとは、何も、「ただ一つの客観的現実を前提として、その現実についての法則定立を目ざす」ための仮説検証のためにだけ存在しているわけではない。個々の要請に応えるべく、有効性を検証する手段として必要であればこそ、導入せざるを得ないのである。

 この件に関して、箕浦氏は「解釈的アプローチは、問題解決ではなく、むしろ問題発見のためにある」と応えてくださったが、私自身はやはり

●問題解決をめざすためには、問題発見の段階から、問題解決と同じ概念的枠組みでアプローチする必要がある

という考えを主張せざるをえない。

 なお箕浦先生には、このセッション終了後もいろいろとお世話になりました。光栄に存じます。