じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 春車菊。大学構内の空き地に自生する園芸植物としては最強であり、ほうっておけば一面、お花畑になる。今年は、花芽が伸びた頃が草刈りと重なり、大部分刈り取られてしまった。とはいえ、株は残っているので、いずれまた花をたくさんつけることと思う。


6月17日(木)

【ちょっと思ったこと】

神戸のヴィーナスブリッジの「愛の鍵」

 6月18日朝5時台のNHKニュースによれば、神戸市・諏訪山公園「ヴィーナスブリッジ」の手すりには、永遠の愛を誓うためのおびただしい数の南京錠がかけられている。同市はこれまで黙認してきたが、手すりの塗装ができず安全面で問題が出てきたため、新たに鍵かけ用のモニュメントを設置、一定の「かけかえ」期間を設けた後に、手すりや防護柵に残った分については切断・撤去する方針であるという。

 さっそくネットで調べたところ神戸新聞・2004年2月23日記事に詳しい記述があった。それによれば、同ブリッジは1971年に完成し、2000年5月の時点では円形の踊り場部分を中心に60個が確認されていたが、その後、雑誌やラジオでも紹介され、この半年間で約1000個増加、2月23日の記事の時点で約3600個に達している模様だ。

 このような行為が「儀式化」した背景には、ロケーション、橋の名前からの連想、おみくじを木の枝に結ぶ習慣がもともと日本にあったこと、100円ショップでも容易に南京錠が手に入ること、などの要因があったものと推測されるが、一番大きいのはやはり、雑誌やラジオの影響だろう。

 ところで、今回のNHK報道や各種記事では、残った錠前を「切断して」取り外すことを「心苦しい」としているようだが、どうせ100円ショップで買った安物の錠前ばかりであろう。いっそのことTVチャンピオンあたりで「錠前外し選手権」を企画し、プロの鍵屋さんが制限時間内にいくつ外せるかを競ってもらったら、コストもかからず、「切断」も避けられて一石二鳥になるのではないかと思う。外した錠前は、新しいモニュメントに再び取り付ければよいだろう。

 余談だが、6月18日は、私たちの結婚記念日である。今年で21年目。お祝いに南京錠でも買ってくるかなあ。

【思ったこと】
_40617(木)[教育]情報学環新生記念シンポジウム(5)研究の発展と細分化/自然科学統合化のキーワード

 6月12日に東京大学・安田講堂で開催された東京大学大学院情報学環・学際情報学府新生記念シンポジウム「智慧の環・学びの府:せめぎあい、編みあがる情報知」の感想の最終回。なお以下はすべて長谷川の聞き取りに基づくため、不正確である可能性がある。あくまで個人の感想に過ぎない点を予めお断りしておく。また、リンク先は、先方のサーバーのメンテやurl変更によりアクセスできない場合があります。

 パネル討論の最後には小宮山副学長が登場された。小宮山氏は、20世紀における科学の発展の例として、「光合成」に関する「知識の爆発」を取り上げた。1900年頃の科学者は、我々が小学校の頃に習う程度の知識、つまり、太陽光と炭酸ガスと水が葉緑素の作用で酸素と炭水化物に変わるというレベルの知識しか持ち合わせてしなかった。ところが1990年までには、東京都区内のJR線のような複雑な仕組みが明らかにされている。

 小宮山氏はまた、それぞれの分野を小さな円に例え、その円の数が科学の発展により膨大な数となったことを視覚的に示した。私には、これは、2等星以上のまばらな星図が6等星までの無数の星が描かれた詳細な星図に変化したように見えた。こうなると、もはや一人の人間の理解力を超える。専門性を持ちつつも幅広い視野の持てる研究者が求められるようになる、というわけだ(←長谷川の記憶に基づくため、細かい語句は不明)。

 分野別の知識を小さな円で表し、その数が膨大になるという例えは視覚的に分かりやすいものであるとは思った。但し、気をつけなければならないと思ったのは、世界は決して、これらの「星」の集合体ではないということだ。ジャーナリストの武田徹氏が「世界は「分野別に整理」されているわけではない。」と語られたごとく、世界も宇宙もすべて人間から独立した存在であり、知識の集合体では決してない。知識とは、むしろ、夜空の星を星座の線でつなぐような人為的なものにすぎないように思う。ニーズや目的が変われば、星座の繋ぎ方も変わってくる。さらには、星自体の位置や数すら変わってくるものであることに留意する必要があるように思う。

 小宮山氏は、最後のほうで「大学の構造と俯瞰像」と題して、自然科学統合化のキーワードが「ビッグバン」「物質」「地球」「人間」の4つにあるという構想を示し、さらにその外側に人文科学が包み込まれ、情報学環→社会という図式化ができるというアイデアを披露しておられたが、これは、あまりにも壮大すぎて、私自身の理解を遥かに超える内容であった。




 パネル討論がすべて終了したあと、フロアからお二人がコメントを寄せられた。そのうち、北海道でNPO活動をしておられるという方は、学際的な方向を評価した上で、この種の研究ではまだまだ、実践活動の中では当たり前に口にされている程度の発見しかない、もっと、(実践からの)予想に反するような発見が期待されるというような意味の発言をされていたように聞こえたが、全然違う意味だったかもしれない。余談だが、私自身が担当した心理学研究法の入門授業の中で、私は、心理学の研究においても、確実性を保証した上で
  • 何かを発見する
  • 何かを作る
  • 何かを予想する
  • 何かを制御する
  • 何かを整理する
のいずれかが求められると説いた。この5点は、実践活動における「当たり前」を乗り越えるものでなければ価値が無いと思っている。




 ということで、今回の記念シンポについての感想を終わらせていただく。形式上は、一大学における研究・教育組織の統合・発展を記念した企画という趣旨であったが、研究分野の細分化の弊害、学際性の意味、その他、スペシャリストかジェネラリストかなどを考える上で、大いに意義深いシンポジウムであった。