じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 宿根亜麻。4月下旬より次々と花をつけている。だいぶ昔、青系統のミックス種に含まれていたものであるが、次第に株が減ってきてしまった。保護してやらなければ。なお、似た品種は炉霍で見たことがある(アルバムリストはこちら)。


5月15日(土)

【ちょっと思ったこと】

南アフリカ

 国際サッカー連盟(FUFA)は15日、2010年ワールドカップ(W杯)の開催国に南アフリカを選出したという。南アフリカと言えば、かつては、アパルトヘイトで国際的に非難を浴び続けてきた国である。しかし、こちらの基礎資料にも記されているように、1989年9月のデ・クラーク前大統領就任以来、アパルトヘイト撤廃に向けての改革が進展し、その集大成として、1994年4月26日〜29日に南ア史上初めて黒人を含む全人種参加の下で総選挙(制憲議会選挙及び州議会選挙)が実施されマンデラ大統領が選出された。

 制度上ばかりでなく庶民の生活の隅々にわたって人種差別が完全に消えたのか、また経済面での人種格差は解消されたのか、細かいことは分からないが、とにかく、平和的に政権が維持され、危険情報が犯罪面に限定されている点は、中東での深刻な武力衝突と比較して驚くべきことだと思う。

 中東との違いはどこにあるのだろうか。あるいは、キリスト教が人口の約80%を占めるということで、宗教上の対立が起こりにくかったためか。マンデラ政権が平和裏に樹立され、マンデラ氏自身が過去に拘らない穏和な融和策をとったためなのか、このあたりのことは素人の私には分からないが、パレスチナやイラクで同じような平和的解決が図れればどんなによいかと思ってみたりする。


【思ったこと】
_40515(土)[心理]気楽な老後の迎え方(1)「百歳万歳」と向老期の生きがい

 NHKで百歳バンザイ!という番組をやっている。放送時間は毎週土曜日の13時50分から14時となっているが、私自身は、土曜日朝5時40分から5時50分の再放送を視る機会が多い。15日の朝は、共稼ぎの息子夫婦や孫夫婦と同居し、昼間は洗濯や電話番など、留守宅を守りながら家事をする101歳のおじいさんの話を取り上げていた。元・銀行員で単身赴任が多かったため、ここで恩返し、働かないと御天道様に申し訳ないと語っていた。そのほか、こちらのログにもあるように、100歳以上のお年寄りの元気なご様子がさまざまに紹介されている。私なども、100歳までならまだ48年ほど残っている。ああいうふうに100歳を迎えられたらいいなあと思う。

 もっとも、現実に、元気で100歳を迎えるというのは至難の業だ。私の母親は60歳の時、癌で亡くなっている。私自身もいつそうなるか分からない。また、長生きすればするほど、身近な不幸に出合う回数も多くなってくる。結果的に100歳まで生きられるならばそれはそれでメデタイが、仮に60歳、70歳で死ぬことになったとしても、それなりに満足と言えるような人生でありたいとは思う。

 このことに関連して、最近、「向老期」という言葉をよく聞くようになった。男性で40〜64歳、女性で40〜59歳のあたり、別の文献では50歳代以上のあたりをそう呼ぶらしいが、暦上の年齢よりもむしろ、それぞれの人の家族関係の変化、仕事や収入により、区分したほうが共通の特徴を捉えやすいようにも思う。この時期は、老齢記に向けて、ライフスタイルを再構築するために重要な時期であるとする考えがある一方、現実には、いま現在の生活にかかり切りで、老後のことまで考える余裕が無いという人たちも多いように思われる。

 この時期を迎えて私自身が思うのは、人生を山登りに例えた場合、生まれた時が登山口の出発点で、死ぬときが頂上という考え方は、あまりにも堅苦しく非現実的であるということだ。何も、人生の最期は頂上で過ごさなくてもよいではないか、むしろ、人生のある時期に頂上を極め、そのあとは、ゆっくりと、その道を戻り、遠くの景色をじっくりと眺めたり、道ばたに咲く高山植物を楽しみ、ある程度下りてきたところで最期というほうがはるかに気楽でよいと思う。

 「頂上で人生の最期を」というのは、ある種の宗教、もしくは強い使命感に燃えた人の生き方であろう。それはそれでスゴイと思うが、そこまで頑張らなくてもよいという気もする。

 これに対して、人生の中途に登頂目標を置くというのは、気楽ではある反面、いったん登り詰めたらそれ以上の向上は求めないという点で、どこかで妥協する必要がある。また、この後者のスタイルをとるからには、若いときにそれなりに努力し、何かを達成しておくことが不可欠。それがないと、単なる敗北主義、不完全燃焼の生涯に終わってしまうだろう。

 ネットを検索していたら、こちらのサイトで、この後者のスタイルを表すような言葉が見つかった。そこには、
50代 「私は、わたしだからできないことには無理をしないけれども、わたしだからできることをやり遂げよう」と思うから、「やり抜こう」と努力する。そして、その過程で、「やり抜けること」と「あきらめること」を区別するようになって、「今の私ができないことはあきらめて、今の私ができることをやり抜くために生きよう」と思うようになる。


 人生を山登りに例えると上記の引用を結びつけてみるならば、人生の中途で最高地点に達したからといって、すぐに下山をするわけではない。その標高にとどまれるうちは、もう少し尾根づたいに散策を続けてみよう、但し、これ以上高いピークは目指さない、という意味になるかと思う。現に私は、その実践モードに入っている。下山はまだしばらく先のことになるだろう。