じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 大学構内の至る所でタンポポの花が咲いている。いちめんに広がるお花畑はなかなか見事。


4月17日(土)

【思ったこと】
_40417(土)[一般]ハンコ社会は変わるか

 新年度に入り、学生・院生から「ハンコをお願いします」と言われることが多くなった。指導教員の押印が必要な書類としては
  • 院生の履修計画書
  • 院生の他研究科授業受講願い
  • 自動車通学者の駐車許可証申請
  • 卒論生の図書長期貸し出し願い
などなど。押す側も大変だが、押してもらう学生・院生はもっと大変だ。オフィスアワー設定により改善されたとはいえ、相変わらず研究室に不在がちな教員もいる、学生・院生のほうもとにかく期日までにハンコをもらうために教員を探し回る必要がある。もう少し簡素化できないものだろうか。

 これについては、そもそも指導教員のハンコが必要なのかどうかという問題と、ハンコ社会の根本に関わる問題がある。




 まず前者の問題だが、「指導教員の押印が必要」であるということには
  1. 学生の申請内容が妥当であるかどうか、指導教員は事前にチェックしなければならない。妥当でない場合は、押印を拒否する責務がある。
  2. 申請内容が妥当であるかどうかまで確認する義務は負わないが、学生がどういう申請をしたのか、指導教員として知っておく責務がある。
といういずれかの意味があるように思う。しかし、履修指導に関わる部分を除けば、指導教員といえども事前にチェックすることには限界があるし、現実に押印を拒否することなどあり得ない。駐車許可証の発行基準を満たすかどうかなどは住所確認(場合によっては、公共料金の振り替え通知書など)をすれば済むことであるし、申請者が卒論生であるかどうかなども学生証の確認だけで済む。かなりの部分は簡素化できるように思う。

 2.の「指導教員として知っておく必要があるから」という理由も、これだけ書類が多いと現実的とは言えない。指導教員としてどうしても知っておく必要がある場合は、別途、リストを配布してもらいたいものだ。




 次に後者の問題だが、そもそも、ハンコが押されているからといって、それが本当に本人の押印であるかどうかは、事件が起こるまでは確認できない。よほど珍しい名字でない限り、今やハンコなど100円ショップでも売られている。印鑑証明でもつけない限りは、殆ど無意味ではないかという気もする。

 それにしても、日本社会ではなぜこれほどまでにハンコにこだわるのだろうか。ネットで検索したところ日本人は何故かくまでハンコを寵愛するかといった記事が見つかった。これによれば、ハンコの始まりはおそらくシュメール人が使った円筒印章。いっぽう江戸期以前の日本では、印鑑ではなく、花押のようなサインが使われていた。それが江戸時代に入って「印形は首とつりかへ」と言われるまでのハンコ重視となる。さらに明治に入り太政官布告によってハンコの捺印が義務づけられ、「署名捺印」から「記名捺印」となって現在に至ったということのようだ。

 上掲の記事などを参考に日本がハンコ社会になった理由を私なりに考えてみると、
  • 縦割り社会における「連帯責任」という建前のもとでの責任分散の象徴。
  • サインと異なり、代理で押印することができる。
  • 漢字をデザインするだけで、固有の印章が作れる(アルファベットより字体が複雑)。
  • 日本人が得意とする精密な加工技術。
といった点が挙げられるように思う。

 重要な契約の際に「印鑑証明」と「実印の押印」という形でハンコを用いることにはそれなりの意義があるだろうが、三文判で済むような押印はさっさと廃止してしまったほうがよい。どこまで廃止できるのかを検討することは、事務処理の簡素化にもつながるだろう。