じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 3月19日の日の出(6時9分撮影)。新しい生活の始まりを象徴する清々しい朝であった。


3月19日(金)

【ちょっと思ったこと】

在外研究員になれなかった私

 国立大学法人化に伴って、文科省の在外研究員制度が廃止されることになったという。私の職場では、この応募は、申し込み回数の多いほうからのローテーション(=実質的に、着任後の経過年数)となっていた。私自身は、短期のほうで次回に1位となる権利があったのだが、これで消滅してしまった。

 思えば、在外研究員に関しては私の人生は「不遇」であった。6年間のオーバードクターの後に最初に常勤職に就いたところは医療短大であった。国立大の若手教員には、比較的採用されやすい若手枠というのがあったのだが、短大の教員には適用されなかった。

 岡山に転任した時にはすでに若手枠の年齢を超えていた。また申し合わせにより、「申し込み回数の多い順」に応募することになっていたため、転任後しばらくは順番が低くてどうにもならなかった。

 その後、順位が射程内に上がってきた頃、教養部廃止により、教養部所属だった先生方が文学部に籍を移して来られた。実質的に2つの学部が合併されたようなものだから、在外研究員の枠も2倍に増えてよいはずなのに、実際は旧文学部のままであった。また教養部では異なる方式のローテーションを行っていたために既得の期待権を確保しようということになり、「学部推薦枠は旧文学部出身教員枠と旧教養部出身教員枠で交代交代に活用する」というように申し合わせが変更された。これによって、順番が回ってくる頻度はおおむね3年に一度から6年に一度になってしまったのである。

 さて長期在外のほうでいよいよ最上位という時は申し込み回数最多の教員がもう一人あり、教授会の面前で割り箸によるくじ引きをすることになった。まことに不運なことに、私は「ハズレ」マークのついた割り箸を引いてしまった。

 その「ハズレ」により、年齢が50歳を超えてしまったため、長期在外研究員への応募資格は失われてしまった。残された最後のチャンスは短期在外にあったわけだが、今回の法人化のとばっちりでそちらの資格もとうとう消滅してしまった。

 トレッキングや辺境旅行目的であるならすでに15回以上海外に出かけている私であるが、遊びと研究は別である。せめて数ヶ月くらいは、海外で雑務から離れて研究に専念してみたかった。うぬぼれるわけではないが、もしローテーションなどといった棲み分け「平等」主義とは異なる形で応募順位が決まっていたとしたら、もう少し頑張っていたかもしれない。

 なお、まだ流動的ではあるが、法人化後は、教育・研究面で一定の貢献があった教員には半年のサバティカル休暇が与えられることになりそうだという。となれば、その期間に私費で海外の研究施設に滞在することは可能となる。もっとも、休暇期間中に何をしてもよいと言われたら、たぶん私は、カイラス山巡礼やチベット奥地探検、アイスランドあたりに長期滞在してのオーロラ見物で半年を過ごしてしまうだろう。