じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 17日の岡山の最高気温は、なんと23.3度(平年より10.4度高)まで上がった。桃の花とその後ろのミモザが見頃となっている。


3月17日(水)

【思ったこと】
_40317(水)[教育]産学連携への挑戦:モノづくりからチエづくりへ(2)「おもちゃで遊ぶ」とは何か

 3月14日(日)に行われた表記シンポジウムの感想の2回目。第二部は、チエづくりのフロンティアというタイトルで、教育学部と「おもちゃ王国」の産学連携の取り組みが紹介された。


[今日の写真]  第三部(後述)でも指摘されたが、文系学部との産学連携の取り組みというのは岡大ではきわめて少なく、しかもこれまでは教員個人レベルが主体であった。今回紹介された事例は、教育学部が組織として連携しているという点で大きな意味がある。好むと好まざるに関わらず大学教育改革の大きな流れの中では教育学部の再編は必至であろう。教員養成とは別に、チエづくり、役に立つ知識を提供していくことは教育学部の重要な使命の1つとなりそうだ。今回のシンポの冒頭でも言及されたが、もともと「チエ」という言葉には、役に立つ、使えるといったpracticalな意味がある。このあたり、文学部系で強調される「知」とは異なる。

 さて、第二部では、おもちゃ王国・ゼネラルマネージャーの三宅氏と、専務の高谷(昌宏)氏から、「おもちゃで遊ぶとは何か」について、かなり深い説明があった。基本的な理念は、松田恵示氏の『おもちゃと遊びのリアル』(世界思想社)という本の中に示されているそうだが、現時点ではまだ入手できていない。

 あくまで今回聞き取れた範囲であるが、ここではまず
個としての存在である子どもが、対象としての「おもちゃ」に働きかけていることが「おもちゃで遊ぶ」という行為であり、他の人や場の雰囲気というものは、それを取り巻く副次的な要素と考えられている。
という一般的な考えを紹介した上で、
子どもが、他者(他の人)とモノ(おもちゃ)と自己が溶け込む、という独特の関係のなかにある
と見たほうが正確なのではないか、そして、
  • 「おもちゃで遊ぶ世界」の存在こそが、おもちゃを「おもちゃ」たらしめる基盤という見方を導く。
  • 遊んで時間を忘れるということも、この世界に溶け込むからこそ引き起こされる事態なのではないか。
  • 「おもちゃ」は「おもちゃで遊ぶ」という世界を創造する(溶け込みを促す)ためには、欠くことのできない要素であるとともに、そういう世界が成り立ったときにのみ「おもちゃ」になりうるという、両義的な性格を持つ。
と主張された。

 ここでは「溶け込む」がキーワードになっているが、標語や合い言葉であるならともかく、これを学術的にきっちりと定義するのはなかなか難しいように感じた。

 行動分析的に再定義するならば、おそらく
  • 個としての存在である子どもが、対象としての「おもちゃ」に働きかけている→子どもが、オペランダムである「おもちゃ」に対してある種のオペラントを発している
  • 他の人や場の雰囲気→おもちゃで遊ぶというオペラント行動が強化される随伴空間
  • この世界に溶け込む→ある生活時間内において、そのオペラントだけが専属的に強化され続けている
というようになるのではないかと思う。

 ここでいう「オペランダム」とは、人間や動物が操作する環境の一部(=操作体)のことである。この意味では、我々が日頃使う食器も、車のハンドルやアクセルも、パソコンのキーボードもすべてオペランダムである。その中で「おもちゃ」とは何かと考えてみると、おそらく子どもの場合には、ある閉じた空間の中で自由に操作でき、かつ安全が保証されたオペランダムということになるのだろう。つまり、子どもが、おままごとでなくて台所の本物の器具を使ったら、火傷や切り傷を作る危険が大きい。車やパソコンも自由に使わせたら大変なことになる。そこで、安全性を確保した上で、なるべく多様な働きかけができるように作られたものがおもちゃということになる。

 もっとも、この定義では、おもちゃ王国のスタッフは決して満足しないだろう。おそらく「おもちゃ」には、日常生活上の事物以上の無限の可能性がある。日常の事物は、使用方法に従って使用目的のためだけに使うことが義務づけられているが、おもちゃではその制約がない。だからこそ、日常で味わえない体験を可能にしてくれるのである。といっても、何も大規模なアミューズメントパークがよいというわけではない。個々の事物に対する能動的働きかけが無ければ、感動は持続しないと言いたいのだと思う。

次回に続く。