じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] サクランボの花が満開になった。桜の一種の中でも「実桜」と呼ばれる品種の1つらしい。早咲きの品種としては「カンヒザクラ」があるが、赤い花ではないので「緋桜」とは異なるようだ。


3月15日(月)

【ちょっと思ったこと】

公衆電話が見つからない

 夕食前に見た民放ローカルニュースで、公衆電話の数が減っているという話題を取り上げていた。岡山市内(県内?)でかつて1万3400台あった公衆電話は、毎月の収入が4000円以下の電話機は撤去するというNTT西日本の方針により現在では9700台に減っているという。但し、500メートル四方に最低1台は設置しなければならないという法律があり、すべてが撤去されるわけではない。

 相変わらず携帯を持たない主義を貫いている私自身も、このことでずいぶん不自由な思いをしている。デジタル・デバイドという言葉はよく聞くが、ケータイ・デバイドはそれ以上に利便の差をもたらしているような気がしてならない。

【思ったこと】
_40315(月)[一般]「高橋尚子落選」のわかりやすさ

 日本陸上競技連盟は15日、東京都渋谷区の岸記念体育会館で理事会・評議員会を開き、アテネ五輪の男女マラソン代表と補欠を決定した。女子代表には、野口みずき、土佐礼子、坂本直子の3人、補欠には千葉真子が選ばれたという。【以下、各選手の敬称は省略させていただく。】

 伝えられた情報から見る限り、私自身は、高橋尚子が選ばれなかったのは当然であり、補欠に選ばれなかったという一点を除けば、きわめて分かりやすい選考結果であったと思う。にもかかわらず、選ばれた3人の激励よりも「高橋落選は残念」「高橋を選ばないと国民が納得しない」というような取り上げ方をするのはきわめて不自然。今後さらに選考基準を明確にしておく必要があるように感じた。

 伝えられたところによればマラソンの代表選考基準は昨春、日本陸上競技連盟が決定。内容は
  1. 世界選手権(03年8月、パリ)でメダルを獲得した日本選手の最高位1人を代表に内定
  2. 選考レース(男女世界選手権、男子=03年12月福岡、04年2月東京、04年3月びわ湖。女子=03年11月東京、04年1月大阪、04年3月名古屋)の上位選手の中から、アテネ五輪でメダル獲得、または入賞が期待される選手を選考する。
ということであった。1.がきわめて明快な基準であるのに対して、2.はきわめて曖昧だ。「アテネ五輪でメダル獲得、または入賞が期待される選手」と言ったところで、「期待される」とは何を意味するのか。単に「国民がメダルを期待しているかどうか」で選ぶならば、確かに高橋尚子が選ばれる可能性だってある。しかしもしそういう意味であるならば、「国民の投票により最も多くの得票を得た者1名」という基準を別に設けておくべきである。そうではなく、「メダル獲得が予測される」という意味であるならば、正確な予測手段を開発しておかなければならない。またこの場合に限っては、選考委員は、本当にメダルを取れたかというかという結果に対して連帯責任を負うべきであると思う。

 午前中の委員会では、「選手時代を含め、私は長年、五輪にかかわってきて、若い子だけではうまくいかないと確信した。高橋尚子は必要だ」と述べた陸連副会長も居たというが、これも上記と同様の理由で納得できない。もし、ベテランが必要だというならば、別枠1名分、実績重視型の基準を設けておくべきであった。あるいはいっそのこと、「五輪金メダリストは、本人が辞退しない限り、次大会に出場できる」というようなシード権を与えておいてもよかっただろう。




 昨日まで3回にわたり、大学入試制度について考えを述べたばかりであるが、大学入試というのは理想的には、入試得点の多少ではなく、大学入学後にも熱心に学業に励み、卒業後に活躍が期待できるような受験生を合格させたほうがよいに決まっている。しかし、現実問題として、入学後の活躍を正確に予測する手段は無い。その現状において、主観や直感に惑わされて入試得点の高い者を不合格にして低い者を逆転合格にしてしまうことがあれば、縁故入学や情実選考ではないかとの疑惑を招いてしまう。選抜手段を多様化する努力は必要であるとしても、あくまで客観的指標に基づいて選ぶということこそが真のわかりやすさにつながるのである。

 理事として出席した増田明美さんによれば、選考委員会の後に開かれた理事会でも、多数の「選考レース重視」派と、少数の「国民の納得重視」派の果て知れぬ激論があったということだが、「国民納得重視」というのが客観指標重視と異なる意味で使われていることには非常に違和感を覚えざるを得ない。




 客観指標重視には、誠実な努力の積み重ねで獲得された成果を最大限に尊重するという意義があることも忘れてはならない。上の例でもそうだが、入試で450点の者が不合格、440点の者が合格にされてしまったら、450点を取った人の努力は報われない。後輩も、いったい何を努力してよいのか目標を失ってしまう。「このレースでこういう成果をあげれば代表に選ばれる」という具体的目標が無ければ選手も努力しなくなり、結果的にそのスポーツは衰退していくに違いない。そういう意味で、今回の選考結果は、基準に曖昧さが残るとはいえ、すじを通したものであったと思う。




 私が1つだけ納得できなかったのは、高橋尚子がなぜ補欠に選ばれなかったのかという点だ。「平凡な成績」に終わったとは言え、高橋は東京で2.27.21という結果を出している。いっぽうの千葉は、世界選手権では2.25.09で三位となっているものの、大阪のタイムは2.27.38で高橋より悪い。客観的に千葉のほうが良いとは必ずしも言えないように思える。このことについて、陸連幹部の一人は、「本番で金メダルをとつて、国民栄誉賞までもらった名選手を、今さら補欠なんかにできない」と語ったというが、これはおかしい。補欠になることは不名誉でもなんでもない。実際に出場できなくても、他の代表選手のサポートをする重要な役目を果たしてくれるはずだ。高橋本人が辞退しない限りは、ぜひ選んでほしかった。

 それから、この点はくれぐれも念を押しておきたいのだが、代表選手の選考はあくまで、過去の対象レースの成果を認定する形で行われるべきものであって、アテネでの活躍を予測するものではない。本番で3選手が期待はずれの結果に終わったとしてもそれは選手の責任でもないし、選考委員の責任でもない。もし不備があるとすれば、客観的選考基準の中身にあったと考えるべきであろう。