じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 東京で生まれ育った私は、33年前、東京に住み続けるのがイヤで地方の大学を受験した。しかしいま、東京の大学をめざして上京する若者もいる。写真は2003年1月6日、成田→福岡便の機上から。


2月23日(月)

【ちょっと思ったこと】

時期尚早論にも発言責任あり

 大学改革に関する議論の場で必ず出てくるのが時期尚早論である。その共通する論点は
  • 当該の議題はまだ議論が尽くされていない。
  • 先を急がず、合意形成に徹するべきだ。
  • 寄せられた懸念に対して提案者は説得力のある反論をする責任がある。
  • この提案を実施すると、次のような弊害が生まれるかもしれない
といった内容である。そういう発言が出たために懸案事項が半年あるいは1年以上先送りされる場合もある。

 もちろん、どのような組織においても何かを実行するためにはメンバーの合意を形成することが大切であろうとは思うが、昨日の日記の「根拠と論拠」のところにも書いたように、前提条件が異なれば議論だけで100%の合意にこぎ着けることは難しい。部分的にせよ実行に踏み出し、その中で効果や弊害を検証していくことが大切なのではないかと思う。

 このことに関して最近特に強く感じるのは、時期尚早論を唱えるにもそれなりの発言責任が伴うということだ。

 従来、時期尚早論というのは、

●あることを実行すると弊害Aが生じる恐れがある。

という形で唱えられることが多い。しかし、そこにはじつは

●あることを実行しなくても現状が維持される。

という暗黙の前提があるのだ。ところが、情勢がめまぐるしく変化する今の世の中にあっては

●あることを実行しなければ損失Bを被るおそれがある。

という可能性も十分にある。時期尚早論者は、弊害Aの確からしさを証明する責任を負うとともに、問題を先延ばししても損失Bは生じないであろうということについて根拠を示す責任がある。

 例えば、新型の伝染病が流行し、そのためのワクチンが開発されたとする。この場合にありがちな時期尚早論は、

●ワクチンの注射は副作用が懸念される。副作用が100%無いと証明できるまでは予防注射の実施を延期すべきである。

ということかと思うが、これは、予防注射を実施しなくても伝染病が流行らない、という前提のもとで初めて説得可能な主張であろう。実際には、

●予防注射を実施しなければ、新型伝染病で死者が続出する恐れがある。

という懸念があり、両方のリスクを考慮に入れた上で主張をしなければ、責任ある発言とは言えないように思う。

 あることを実施した場合のリスクと、実施しない場合のリスクの両方が想定される時に、時期尚早論に従うというのは、結果的に、実施反対という主張に同意したのと同じことになってしまう。ではどうすればよいか。現実的な対応としては、「実施を原則とするが、拒否してもよい」というように任意性を高めることである。これはある意味では、選択の責任を個々人に委ねるという無責任なやり方でもあるが、何もしないよりはマシであろう。個々のケースで損失が発生しても責任はとれないが、効果を検証する姿勢をとり続ける限りにおいては、将来に向けてより建設的な方向を示せるという意味で責任を果たすことができると思う。