じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 22日の岡山の最高気温は21.3度。平年よりなんと11.5度も高かったという。そんな暖かさに誘われて露地植えのヒヤシンスの花が開き始めた。ここに植えてあるのはすべて前年度までに水栽培や鉢栽培で花を咲かせてから移植したもの。「引退ヒヤシンス休息所」である。


2月22日(日)

【ちょっと思ったこと】

BSE1頭の国より10頭の国の肉を信用するわけ

 各種報道によれば、神奈川県平塚市の酪農家が飼育し、2月20日に同県厚木市の食肉処理場で解体された乳牛が牛海綿状脳症(BSE)であることが21日、わかった。国内で見つかったBSE牛はこれで10頭目になるという。もっともこのニュースの扱いは小さく、朝日新聞では34面の隅に本文34行で取り上げられた程度。先日の牛丼屋チェーンの「最後の一杯騒ぎ」とはエライ違いである。

 22日夕刻に夫婦で買い物に行く機会があったが、食品スーパーでは国産とオーストラリア産の牛肉が売られていた。もはや売り場から国産肉を撤去する光景は見られない。

 10頭ものBSEを出した国産牛が安全であると受け止められているのはなぜだろうか。おそらく、日本人のあいだで、BSEの危険は去ったという意識が定着していることが最大の理由であろう。仮に新たな発生があっても、流通に回る前にチェックがかかる。このことへの信頼感が消費を支えているといってよい。もし、どこかで検査体制のずさんさが一度でも指摘されれば再びパニックが起こる可能性がある。

 いっぽう、アメリカ産の牛肉の場合は、全頭検査を実施していないことへの不信感が依然として強い。仮に外交圧力によって輸入が再開されたとしても、現段階で消費が伸びるとは思われない。

 BSEの発生件数ではなく全頭検査の有無が焦点となっていることからもわかるように、我々が感じるリスクというのは、全体の確率ではなく、予測や制御がどこまで及ぶのかに依存して決まってくるようだ。
【思ったこと】
_40222(日)[心理]批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ(7)トゥールミンと根拠、論拠

 2月8日(日)に京大で行われた表記ワークショップの感想の続き。

 8〜10番目は「批判的思考の教育:議論の指導」という大テーマであった。このうちの8番目として福澤氏による「トゥールミンの議論モデルと言語論理教育」という話題提供が行われた。

 トゥールミンはイギリスの分析哲学者であるが、私は著作を読んだことがなかった。もっとも、ここで紹介された内容がトゥールミンの思想の根幹というわけではなさそうだ。なお、福澤氏ご自身もNHK生活人新書から『議論のレッスン』という著書を出しておられる。

 福澤氏は、ご自身が担当されている言語論理教育の授業の内容を紹介された。まずそこでは日常会話の事例として
  1. 太郎:今日のお昼はカレーにしようよ。
  2. 次郎:どうして?
  3. 太郎:だって、昨日はラーメンだったじゃない
  4. 次郎:そうだね。そうしよう。
および
  1. 今日彼女はどうしてミーティングに来なかったのかなあ?
  2. 風邪だそうですよ
という事例を取り上げられた。これらの会話では、理由として「昨日はラーメンだった」や「風邪をひいている」という根拠が挙げられているが、それと主張をつなぐためには、暗黙の根拠、つまりトゥールミンが呼ぶところの論拠がなければならない。授業ではその論拠を推測する演習を行ったという。上記の事例では、1番目の会話では「昨日食べたものと同じのはイヤだ」、2番目は「風邪をひいたら安静にしておく必要がある」などが論拠となる。




 以上までの部分で私が疑問に思ったのは、「ミーティングに来ない」が主張として位置づけられていた点であった。素朴に考えれば「来ない」のも「風邪だ」も事実。この場合の主張は「風邪という原因でミーティングに来られなかった」という因果的推測の部分にあるのではないかと思うのだが、発言者が多くて質問する機会を逸してしまった。

 ま、それはそれとして、どのような主張を行う場合でも、あらゆる理由を挙げるのは不可能だ。両者がすでに合意している場合は論拠が省略される。過去の日本のムラ社会のようなところでは、暗黙の合意がたくさんあり、それを身につけるのが即ち大人になること、また論拠は問い質すよりも察するべきものとされてきたところがあった。少なくとも古い世代において、面と向かって論拠を示すのが苦手であるのは致し方ない。




 相手を説得できることと、その主張が正しいことは別問題であろう。カルト宗教の信者の間では、端から見れば明らかに間違っているような教義が共通の前提となる。そのことからとんでもない行動が正当化される恐れもある。

 行動の原因として何を前提にするのかによっても、因果性の主張は異なってくるだろう。行動の活力の源を「やる気」に求めている人たちの間では、「やる気が無いので勉強をしない」という説明で納得してしまう。これに対して行動分析家は「勉学行動が適切に強化されていないからだ」と考え、結果をどのように随伴させれば熱心に取り組めるようになるのかを考えるだろう。

 迷信的な行動がなぜ起こるのかを説明するにあたって、認知心理学的な発想をする人は、認知の歪みに原因を求めるだろう。行動分析学的な発想をする人は、これに対して、迷信的な行動は外的な結果の随伴によって強化されたと考えるだろう。

 こうしてみると、論拠を明示しても、必ずしも建設的な方向で議論が進むとは限らないように思われる。論拠は突き詰めていくと、主張者のニーズ(要請)にも依存してくる。外交交渉をみれば分かるように、前提条件が異なる国の議論ではもはや論理だけでは解決しない。最後は、武力や経済力で自国の利益を優先させるか、ギブアンドテイクの精神で妥協点を見いだすほかはない。





 話題提供の後半では「アドホックな論拠」つまり「後付のこじつけ」の事例として、ロンドン市街地の爆弾投下位置がランダムであったにもかかわらず、投下位置の地図を見せられると、特異な部分だけをみつけて都合の良いアドホックな解釈をしてしまいがちであるというギロビッチの研究が紹介された。

 「アドホックな論拠」は血液型性格判断における後付の都合の良い解釈などによく見られる。心理学の研究でも、ごく稀であるとは言え、突飛な「発見」に陶酔し学界から失笑を買うというケースがある。

 話題提供の最後のほうでは結論導出の訓練なども紹介されたが、ここでは省略させていただく。次回に続く。