じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] クロッカスの花が咲き始めた。


2月16日(月)

【思ったこと】
_40216(月)[心理]「理想の自己」や「理想の友人」って?

 学生の研究発表の中で、「理想の自己」や「理想の友人」に言及したものがあった。「現実の自己」や「現実の友人」と対比させて使う概念であり、そういうテーマの先行研究がいくつか引用されていた。

 その研究の本筋からは外れるのだが、誰もが「理想の何タラ」を持ち合わせているという前提で議論を進められると、本当にそうかなあという気持ちになってしまう。

 私自身が変人であるからそう思うのかもしれないが、少なくとも私は、「理想の自分」なるものを考えたことがない。この日記のタイトルのように「日々自分を更新したい」という精神は持ち続けているけれども、そのことと何かの理想像に向かって自分を変えていくということとは全然違う。つまり自分がどういう方向に更新されていくのかは、その日の体験によって結果的に分かることだ。「理想の自分」を頭に描いてください、などと言われても無いものは無いとしか言いようがない。

 「理想の友人」となるともっと厄介である。そもそも私は、「友人」というしがらみに縛られることが嫌だ。孤独を好むというほどではないが、頻繁な交流や深夜に及ぶつきあいは、私自身の規則的な生活を乱すものであり、率直に言って時間の無駄であると考えている。複数の人とネット上での「あっさりとした」コミュニケーションが保たれればそれで十分だ。

 個人、仕事、社会、どんなものでもそうだと思うが、理想ばかりを追い求めていても永久に達成はできない。あるいは、理想と現実の隔たりの大きさに失望するだけである。それよりも、現実をありのままに受け入れた上で、改善可能な部分について着実に努力を重ねることのほうが生産的であるように思う。そういう意味で、「理想像」など必要ないと私は思う。





 ところで、大学生に質問調査した場合には「健康」が理想に含まれることは少ないという。健康であることが当たり前すぎるからだろう。

 では、高齢者の場合は「健康」が理想になりうるか。私はむしろ、健康というのは、最低限の条件の1つであって、高く掲げるようなものではないように思う。我々は「理想と現実の隔たり」よりはむしろ「ミニマムが満たされていないこと」に注目することが多い。いったん病気になれば健康がいかに大切なものであるか悟るようになるが、これは、健康が理想であるというよりも、健康は生活の基本条件であることに気づくということではないだろうか。

 余談だが、私は妻に、冷蔵庫の中に物を詰め込むのはやめてくれとよく言うことがある。これは、冷蔵庫内部の管理をきっちりしてほしいというミニマムの要請であると思っているのだが、ある人は、そんなことは誰にもできない、「理想の妻」なる幻想にすぎない、という。現実をありのままに受け入れるか、改善のための提言をすべきか、なかなか難しいところである。