じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 時計台前の楷の木。いったん赤く染まった後、黄色みを帯びてきた。


12月1日(月)

【ちょっと思ったこと】

「なんでだろう〜」とは何か

 今年の「2003新語・流行語大賞」が1日、発表され、「なんでだろう〜」、「毒まんじゅう」、「マニフェスト」の3語が大賞に選ばれたという。このほかトップテンには、「勝ちたいんや!」、「へぇ〜」、「SARS」などが入ったという。

 今回の大賞受賞語に「毒まんじゅう」と「マニフェスト」が選ばれたことは、私にはそれこそ「なんでだろう?」という気がする。「毒まんじゅう」には「自己の功利にはしりまくる政治家の実態への警鐘」と評価されたというが、それほど流行したとは思えない。「マニフェスト」は北川・前三重県知事がかねて日本への流行を訴えたそうだが、一部の政党が宣伝していただけであって、少なくとも私自身は、全く読んだことが無かった。

 「なんでだろう〜」はお笑いコンビ、テツandトモの歌で、「世の中わからないことばっかり」が受賞理由だという。テツandトモという名前は全く知らないが、歌だけは何度か聞いたことがある。

 『新明解』(三省堂)によれば、「なんでだろう〜」の「何で」の元の意味は、

●なんで:どんな理由が有ってそうする(であるか)を確かめたり疑問に思ったりすることを表す。...「〜こんなに寒いんだろう」「〜学校を休んだ」

 では「なぜ?」、「どうして?」とどこが違うのだろう? 『新明解』によれば

●なぜ:どういう理由でそうなのかという主体の疑問、または不信の気持ちを表す。
●どうして:(2番目の意味)どんな理由でこういう事を行なったのか(事態が出来したのか)、判断に苦しむ主体の気持ちを表わす。

と説明されてあった。これらの定義に従う限りは「何で?」という時には、「なぜ」や「どうして」という時のような主体は介在せず、第三者的な「ワカランなあ。でも、どうでもエエや」というような意味合いが含まれているようにも思える。

 ついでにトップテンの1つ「へぇ〜」も『新明解』で調べてみると

●感心したり、驚いたり、少し疑ったり、あきれたりした時などに出す、言葉にならない言葉。

と記されており、こちらは何かしら「感動」が伴っているようにも思われるが、「なんでだろう〜」のほうには、これといった感情変化も想定できない。少なくとも、積極的に疑問を解決していこうという探求心は伴っていないように思える。

 何も疑問を感じない人よりは「なんでだろう〜」の発見のできる人のほうが創造的であるとは言える。しかし、その先の探究を茶化してしまうようでは、思考停止、行動停止であって発展しない。強いてメリットを挙げるとすれば、マインドコントロールされにくいということか。カルト宗教勧誘員から「あらゆる原因の根本原因は何だと思いますか?」とか「あなたの存在理由は何ですか?」などと訊かれても、「なんでだろう〜、なんでだろう〜」を繰り返すだけの人は決して説得されないだろう。

【思ったこと】
_31201(月)[教育]「大学教育の原点を問う」フォーラム(後編):パネルディスカッションと広中先生のコメント

 昨日に引き続き、岡山経済同友会主催の

●大学教育の原点を問う〜大学はどう変わるべきか〜

というフォーラムについての感想。

 フォーラム後半は、副学長の司会のもとに法学部長、高校校長、銀行頭取、岡大生4名のパネリストがディスカッションを行った。

 高校校長からは、高大連携活動の紹介のほか、大学の使命の1つとして、教員の再教育や高齢者の生涯教育を重視して欲しいといった要望が出された。銀行頭取からは、学生に真剣に学ばせること、特に経済学部などの場合は即戦力のある人材の養成が求められること、産学の連携強化などの要望が出された。学生は、岡大における学生・教員FD検討会の活動の紹介などがあった。

 興味深い論点としては、「即戦力養成」についての大学の関わりがあった。

 広中先生はパネルディスカッション終了後の総括コメントの中で、英語コミュニケーション力のようなものは自力でも身につけられる、むしろ必要なのは自分で学ぶ力であるというようなことを強調された。例えば入社して半年後に海外勤務を命じられたとする。その時点で英語力が無いと即戦力にならない、そういうことを大学で教えて欲しいという要望が産業界から出されている。しかし、大学で学ぶ力を身につけている社員であれば、海外勤務のために英語勉強しろと命じられれば、ちゃんとそれなりの準備をしてくるだろうというのが広中先生のお考えのようだ。

 和田秀樹先生が言われているように、元来、受験勉強であっても、自分で志望校を選び、情報を集め、それに適した準備を進めていく限りにおいては、学ぶ力を鍛錬する絶好の機会になるはずである。ところが高校や塾の先生の言われたことだけを受身的に学び、大学生になってからも公務員試験対策講座や資格取得講座など、もっぱら、マニュアルに忠実に課題をこなすだけというのであれば、学ぶ力は身に付かない。ま、このあたりには、大学教育のあり方とは別に、サービス過剰社会に育ったという、世代的な背景もあるように思う。

 このほか、授業評価アンケート実施についても広中先生より貴重なコメントをいただいた。それは、学生が授業評価を行う場合、評価するという行動それ自体に意義があるというお考えだ。つまり、全く居眠りをしていて何も反応のない学生よりは、間違った認識があってもとにかく評価活動ができるという学生のほうがよいということ。米国でこのようなシステムを導入した時にも、最初から高いレベルの目で評価が行われたわけではない。三世代教育の視点と同じく、評価者のレベル向上も時間をかけて取り組む必要がありそうだ。




 以上、フォーラム全体についての感想を述べたが、今後の方向としては、大学教育全体のスタンダードについての議論ばかりでなく、岡大なら岡大の特色として何を大切にするかという議論が必要になってくるのではないかと思う。

 広中先生の講演はあくまで日本全体の大学教育についての課題であった。しかし、それを拝聴した上で取り組むべきことは、自分の大学はどうするかという視点だ。五十周年記念館というローカルの場で「日本の大学全体はどう変わるべきか」を論じてもあまり意味はない。

 これまでに行われたFD研修会についても言えることだが、「大学を変えよう」という意味には

●グローバルなスタンダードはどうあるべきか。それを自分の大学でどう実践するか。

という議論とは別に

●じぶんの大学の特色はどうあるべきか。他の大学の追従を許さないような特長は何か。

を考えていかなければ真の改善にはつながらない。これは広中先生が言われる「違っているからこそ面白い」にも通じるし、競争的環境のもとでの個性輝く大学づくりにもつながる。

 そういう意味では、次回以降はぜひ、高校の先生からは「こういう高校生はぜひ(他大学ではなく)岡大に入学させたい」というアイデア、産業界からは「岡大としてこういう学生を育ててくれたら(他大学より優先して)ぜひ採用したい」というようなアイデアをぜひ寄せてもらいたいところだ。そのためには、より緊密な交流の積み重ねが求められる。