じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 岡大時計台前のアメリカフウ。岡大方向には南北方向と東西方向の街路樹がある。光の当たり具合からいうと、南北方向は昼休み、東西方向は、朝夕に撮影すると色合いよく写るようだ。


10月30日(木)

【思ったこと】
_31030(木)[教育]「どうしたら魅力的な講義が創れるか?」講演会(2)教え方のプロになる努力/どういう感動を伝えるか

 29日の15時半から17時すぎに、岡山大学五十周年記念館で行われた杉原厚吉先生の講演の感想の続き。

 昨日の日記の最後で、名講義というのは、決して話術のうまさではないと述べたが、聞き手側の準備状況も重要な要素となる。じっさい、東大で講義を行う限りにおいては、学生は静かにちゃんと聴いてくれる。ところが同じ内容の授業を非常勤講師先の大学で行うと、私語やケータイの使用が目立つ。そのひどさは体験したものでないと分からないだろう。

 私自身もだいぶ昔に某私立短大で心理学の非常勤講師をしたことがあったが、とにかく私語のヒドさはどうにもならないほどだった。これは私の授業に限ったことではない。私と同じ学部に所属し温厚で知られる老教授が同じ非常勤先で別人のような形相で怒鳴りだしたという逸話もある。このほか、国立大を定年退職した先生が、再就職先で「教える自信を無くした」という逸話もある。

 しかし杉原先生によれば、学生が静かに授業を聴いてくれるような大学というのは、講義の訓練には最悪の環境であるという。いずれにせよ、大学教員は講義のアマチュアである。少なくともこれまでは、研究業績さえ増やしていればよく、授業がヘタでも給料にひびくことはなかった。

 ここまで書くと、魅力的な講義を目ざすことは単なる義務のように思えてしまうが、それは自分自身のためでもあるという。そこには、感動を伝える喜びがあり、また副産物として、よい生徒(=後継者)を得たり、プレゼンテーション技術の向上にも役立つ。欠陥授業への反省ばかりでなく、こうしたメリットを意識しながら授業改善に取り組んだほうがやる気も出てくるというものだ。




 ところで、杉原先生は
  • 自分が感動していないことを人に話しても、感動させられるわけがない。
  • 自分が感動できるまで、講義の内容を深く理解する。
と強調されたが、ここでいう感動は具体的にどのようなことを言うのだろう。

 杉原先生が具体例として挙げられた数学の世界には確かに多くの感動がある。例えば、ある種のソーティング法は作業時間を大幅に短縮するという点で驚きを与えてくれる。もちろん数学にもいろいろな分野がある。予備校の数学の先生が与えてくれるのは、おそらく「問題を解けるようになる」という喜びだろう。

 いっぽう、心理学の研究における感動は実に多種多様である。心理学の概論授業などでまず「感動」するのは、性格テストや知能テストで「自分を知った」時の喜びである。しかしある程度学んでいくと、性格テストの結果なんぞは、自分のクセの一部を知る程度であり、前向きな人生には殆ど役立たないということが分かってくる。そこから先で得られる感動にはどうやら2つのタイプがあり、1つは、行動を変えることができるという喜び、もう1つは、理論に合致する(または反例となる)発見をする喜びである。このあたりのことは、スキナーとの共著:

●Ferster, C. B., & Skinner, B. F. (1957). Schedules of reinforcement.

の第一著者であるファースター氏が

●Ferster, C. B. (1978). Is operant conditioning getting bored with behavior? Journal of the Experimental Analysis of Behavior, 29, 347-349.

というエッセイの中で鋭く指摘している。少なくとも行動分析家は、モデルばかり弄くって実験を繰り返すより、行動を変えることそれ自体に喜びを求めるべきだというわけだ。

 私の授業などでも、この方法によってこれだけ行動が変えられた、素晴らしいじゃないか、という感動が伝えられればいいのだが、思い通りにはなかなかいかない。次回に続く。