じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] この時期になると、大学の建物内にいろいろな蛾が舞い込んでくる。図鑑で調べたところ、不明(左上)、ホソウスバフユジャク(左下)、クロモンアオシャク(右上)、オオキノメイガ(右下)の可能性が高い。蛾は嫌いだという人も多いが、みな自然の一部。人間の都合で害虫扱いされていたとしても、むやみに駆除するものとは言えない。


10月9日(木)

【ちょっと思ったこと】

ごみ固形燃料(RDF)は地球環境を守るか

 夕食時にNHK「クローズアップ現代:爆発した“夢の燃料”〜ゴミリサイクルの落とし穴〜」を視た。

 RDFという言葉はこの番組で初めて知った。家庭から出た「燃えるゴミ」を高熱で乾燥しペレット上に固めたものであり、これを別の場所に集中して、火力発電所の燃料として使用されているという。

 ところが今年の8月19日に三重県で、RDFを貯蔵してあったタンクが大爆発し、その危険性が明るみにでた。もっとも私は、この事故のことさえ全く知らなかった。ボリビア・アンデスに旅行している最中だったのだ。

 番組によれば、発熱の原因は、PDF中に含まれる微生物(最近)の働きによるものらしい。食物油の酸化の影響もあるというが、詳しいことは理解できなかった。消火の段階で水を注ぐと、今度は嫌気性細菌が活発化し水素ガスが発生する。これが爆発を引き起こしたようだ。

 この番組を視てまず思ったのは、PDFが本当に理想的なゴミリサイクルと言えるのかどうかということだ。PDFを製造する段階で高熱乾燥するエネルギーが居る。しかも最終的に燃やしてしまうわけだから、多量の二酸化炭素を発生するはず。PCBの発生は防げるし、高熱でただ燃やすだけよりはエネルギーの有効利用につながることは確かだが、根本的には、化石燃料を無駄使いしているだけではないのかなあ。

 循環社会の根本は、まずゴミの量を減らすこと。使い捨てではなく、何度も何度も再利用したり、熱エネルギーを使わない形でリサイクルしていくことにあると思う。PDFの発想はこれと異なり、ゴミはどんどん出せばよい、それだけ電力需要がまかなえるという発想にすぎないように思える。

 番組ではこのほか、PDF発電所の建設業者の決定をめぐって、効率が最もよいというアメリカのデータを示した企業が選定されたという話もあった。ところが、アメリカのPDFには日本のような生ゴミは殆ど含まれていないという。しかしこんなことって、多少なりともクリティカルな物の見方ができる人だったら、事前に気づくことではないのかなあ。捨てられるゴミの種類が国によって異なるのは当然のことだろうが。このことに限らず、PCB発生防止のために導入された高温焼却炉の発注をめぐっては、いろいろな疑惑が多い。環境問題優先ではなく、環境ビジネスという儲け話として、いろいろな企業が飛びついたためだろう。

【思ったこと】
_31009(木)[心理]学習意欲を高める授業?

 ゼミの中で、大学における講義形式の授業において学習意欲の高低が何によって影響されるかということが話題になった。

 学習意欲に影響を及ぼす因子をさぐる最も手っ取り早い方法は、多数の学生に対して、複数の授業について、学習意欲に関係のありそうな質問と、意欲に影響を及ぼしそうな質問(「わかりやすいか」、「板書は上手か」、「シラバスどおりか」、「カリキュラムと整合性があるか」、「雑談が多いか」、「自分の将来に役立つか」、「外部試験の成績向上に役立つか」...など)を取り込んだ質問紙調査を実施し、そのデータを多変量解析にかけることだろう。そうして、なんだかんだと、統計のしくみもわからずに何タラ回転とかやれば、おそらく、「ティーチング因子(教え方の上手下手)」、「実学因子(内容が外部試験や将来の就職に役立つかどうか)」、...など、幾つかの因子が抽出される。適当に命名した上で考察を加えれば卒論のできあがり。これほど楽なことはあるまい。

 もっとも、このやり方では本質に迫れない部分がある。まず、質問項目というのは、調査者が関係がありそうだと思った項目の中から選ばれる(より慎重に行うのであれば、予備調査としていろんな人から、関係のありそうな質問項目を募集するという方法もあるが)。このやり方では、多かれ少なかれ、調査者が頭に描いている「因子」が質問に反映されてしまうため、意外な因子はなかなか見つかりにくい。結局は当たり前の結論しか出てこないのである。

 自由記述などで集めた回答をKJ法で分類する方法をとっても別の問題がある。回答内容をちぎって複数の参加者が分類しても、参加者共通の主観やその言語コミュニティの中で共通に形成されたカテゴリーに引きずられた分類の域を出ない恐れが大きい。




 それはそれとして、そもそも、講義と学習意欲はどこまで一般化できるものなのだろう。

 私自身の非常勤講師体験や、全国レベルのFD研修会でよく聞く話から考えると、定員割れが深刻な私学で問題にされている「学習意欲」と、一定レベルの学力が確保できている国立大学生における「学習意欲」はかなり質が異なっているように思えてならない。

 私自身かつて私立短大で心理学の授業を行ったことがあるが、ああいうところでは、まず私語をどう抑えるかが最大の課題となる。私語が減って静かになったかと思えば、こんどはケータイメイルだ。何を目的に大学に来ているのか分からない。しかし大学の経営を維持するためには、そういう学生たちに対しても、学問に興味を向けさせ、何とかして「学習意欲」を高めさせなければならない。これはかなり大変な作業であり、ある意味では、小中学校の指導方法と共通する部分がある。

 私は医療系の専門学校でもいくつか非常勤講師をしたことがあり、岡大に来る前は医療短大に奉職していた。こういうところでは、将来の仕事に関係する話題を取り上げる限りは、学生はけっこう熱心に授業を聞いてくれる。つまり、将来の仕事との関連づけが「学習意欲を高める」上で大きなファクターとなっているのだ。

 FD委員長という立場もあり、無責任な発言はできないのだが、私は、一定水準以上の学力があり、かつ、カリキュラムとの整合性がしっかりしている授業であるならば、授業方法の改善というのはそれほど重視しなくてもよいと個人的に考えている。雑談が多すぎるとか、休講が多いといった欠陥授業を摘発する必要はあるけれども、ごく普通の教え方をしているならば、あとはむしろ授業内容のほうが問題だ。多少しゃべり方はヘタでも、授業内容に情報的価値があれば、つまり、その授業を受けることによって新たに身に付くものさえあればそれでよい。実際、私が学生時代に受けた授業を思い出しても、教え方が上手とか話がオモロイとかいうのは二の次であり、むしろ、授業の内容において学ぶべき情報が多かったものが強く印象に残っている。




 このほか「学習意欲」に関しては、課外の予習復習や自主的な勉学をどれだけ活性化できるかも重要な評価項目になる。授業そのものがいくら意義深いものであっても、自分自身の主体的な勉学に発展しないのであれば、大学の授業としては価値が低い。前にも述べたことがあるが、大学の単位というのは、授業時間と、その2〜3倍程度の予復習・発展学習をセットして成り立っているのである。