じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 農場の洋梨の下のツユクサ。除草剤が根元だけまかれていないため、円形状に群がっている。


9月21日(日)

【ちょっと思ったこと】

小此木啓吾先生ご逝去

 精神医学の大家、元日本精神分析学会会長の小此木啓吾(おこのぎ・けいご)先生が21日、咽頭がんのため亡くなられたという。73歳。

 心理学者のはしくれとして、小此木先生のお名前は存じ上げているし、御著書も何冊か拝読したことがあるが、私自身の考え方が影響されたことは殆どなかった。もっとも「モラトリアム人間」という言葉はすでに一人歩きしており、その精神状況がどうあれ、今の時代、至る所にうようよしているように見える。

 少々脱線するが、日本人が普通に思っている「モラトリアム」と、エリクソンなどが言う「モラトリアム」ではだいぶ意味が違うという。和田秀樹氏によれば、日本人が考えているのは、学生が就職を先延ばしにしてブラブラしているような状態、つまり執行猶予期間のイメージ。いっぽう、エリクソンが考えたのは、アイデンティティを確立するための激しい戦い。しかし和田氏は、モラトリアムが立派な大人を作るという仮説には根拠が無く、「不良神話」はウソであると断言しておられる。私もその考えに近い。

 元に戻るが、小此木先生の著書には『ピーターパン・シンドローム』というのもあった。年を取って痴呆症が進んできた時には「二度わらし」と呼ばれることがある。高齢者の生きがいは、もしかしたら、ピーターパンやウェンディになることかもしれないなどと、思ってみたりする。追悼ではなく、脱線ばかりしてしまって失礼しました。ご冥福をお祈りします。

9/22追記]
小此木啓吾先生御自身が論じたモラトリアム人間についての書評がこちらこちらにあった。評者は
  • モラトリアム人間の歪みと病を分析した上で、脱モラトリアムのプロジェクトの欺瞞性と危険性を論じ、わたしたちが生きる道は自らがそうであるところのモラトリアム人間の歪みを見据えた上でモラトリアム人間を生き抜くしかないということを論じていた。
  • モラトリアムを克服すべきものとして捉える(脱モラトリアム論)のではなく、モラトリアムを生き抜く生き方を提唱しているところにある。
と、受け止めておられる。

【思ったこと】
_30921(日)[教育]全学のFD研修会(3)学生の声を聞くシステムを作るだけでは双方向の発展はない

 少し開いてしまったが12日に行われたFD研修会のまとめ。但し、本日は私の個人的な感想である。

 FDの活動に何年か参加していて思うのだが、岡大の場合、全科目についての授業評価アンケート実施、随時受付の自由記述アンケート、学生・教員によるFD検討会など、少なくとも制度的には、学生の声を聞く仕組みが作り上げられていると思う。このうち自由記述アンケートなどにはかなり多くの意見が寄せられ、問題点の改善に大きく役立てられてきた。

 しかし、全体として、学生からの声は、まだまだ、利便性に関わる表層的なものが多いように思う。具体的には
  • シラバスの表示が見にくい。
  • 板書がヘタ。
  • パワーポイントやOHPの字が小さい。表示時間が短すぎる。
  • 教室の奥行きが長すぎて、後ろの席からは見えにくい。
  • 声が聞こえにくい。
  • 授業中の雑談や脱線が多い。
  • 遅刻や無断休講が多い(←岡大の授業ではありえない。私が学生の頃はこれが公然と行われていた)。
  • 私語が多く聞き取れない(←岡大の授業ではまずありえない。某私立短大に非常勤に行った時はこれがきわめて深刻であった)。
などのレベルである(いま挙げたのはあくまで仮想事例であり、実際にこれらの苦情が多く寄せられているという意味ではない。念のため)。

 ここで、授業をレストランに例えてみよう(←このように例えること自体には別の問題があるのだが、これは別の機会に記す)。

 学生側からの要望の多くは、レストランで言えば、
  • サンプルケースやメニュー表が不親切。
  • サンプルやメニューの写真と実際の料理が異なる。
  • 待ち時間が長すぎる。
  • 接客態度が悪い。
といったレベルに属するものだ。もちろん、授業でもレストランでもそれらは基本中の基本であって、改善するのは当たり前である。

 しかし、こういうレベルの欠陥は本来は、教員が自己点検マニュアルでチェックをしておけば、学生たちの声を聞くまでもなく十分に改善されるべき内容である。学生からの声は、もっと高レベルの「主体的・能動的な学び」に関するものに引き上げていかなければならないと思う。

 レストランの例えをさらに続けるならば、それは
  • コース料理の組み立ては適切であったか。
  • 栄養のバランスはとれていたか。
  • 満足できる選択肢があったか。
といったところだろうか。要するに、単に教え方の上手下手を評価するのではなく、
  • 「主体的・能動的な学び」を前提とした上で、その授業を受けることにはどういう意義があったか。あるいは何が満たされなかったか。
  • 勉学・研究を遂行していく上でどういう授業が不足しているか。
といった観点からの前向きの提案が求められるのである。




 5段階で数値評価するような形式のアンケートというのは、質問内容さえ理解できる人なら誰でも回答できるというメリットがある。しかし、評価者の目の質が向上しなければいつまでたっても真の改善にはつながらない。カルチャーセンターの講座であるなら、受講生さえ満足するなら何を扱ってもよいということになるのだろうが、大学教育ではそうはいかない。予め選考・委嘱した学生モニターに、より高度なレベルから評価を求めるという仕組みがあってもよいのではないかと思う。

 その一環として、例えば、「評価とは何か」、「教育における双方向性とは何か」など、それ自体をテーマとするような授業を開設し、その履修者にいろいろな授業をモニターとして受講してもらう(モニターであることは担当教員には知らせず、他の受講生と同じように単位をとる)という制度があってもよいのではないかと思ってみたりする。