じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] ワレモコウ。10年近く前に植えたものだが、暑さと湿気のせいだろうか、毎年、花が咲く頃に白いカビのようなものがついてそのまま葉を落としてしまった。今年もその気配はあるものの、初めてちゃんとした花をつけた。


9月11日(木)

【ちょっと思ったこと】

セミとマツムシ

 11日の岡山の最高気温は31.7度(平年より2.7度高)、最低気温は25.2度(平年より4.2度高)で、相変わらず8月並みの暑さが続いている。先週木曜日以来の最高気温は雨が降った10日を除いてずっと30度以上、また9月12日朝6時の気温は27度という高さであった。

 しかし、やはり夏はもう終わりに近づいているようだ。あれほど喧しかったクマゼミの声はもう聞こえない。昼食時に家に戻る時、遠くでアブラゼミが弱々しく鳴いているのが聞こえた程度であった。いくら暑いと言っても、今頃地面からはい出してくるセミはおるまい。地上に出れば寿命は限られている。

 セミに代わって日一日と賑やかさを増してきたのが秋の虫だ。夕食後の散歩時には2晩続けてマツムシの声を聞いた。
【思ったこと】
_30911(木)[心理]科学と人間行動(1):「最後の世紀」は避けられるか

 9月11日は、米国で起こった同時多発テロから丸2年となった。しかし、当時を追悼する大規模な集会は行われず、また世界各地で起こった平和の祈りも、その後のアフガニスタン、イラク攻撃でかき消されてしまった感がある。米国の爆撃で失われた命は、民間人に限ってもテロの犠牲者をはるかに上回っているし、最近ではイスラエル・パレスチナで絶えることのない争いが続いている。

 少し前の話題になるが、9月7日の朝日新聞オピニオン欄「時流自論」に、

●「最後の世紀」避けるために

という論考があった。筆者は、長谷川眞理子・早稲田大学政経学部教授。同姓の方なので、混同を避けるため、ここでは「長谷川氏」ではなく、あえて「眞理子氏」と呼ばせてもらう。

 「最後の世紀」というのは眞理子氏独自のタイトルではなく、イギリスの天文学者、マーテイン・リースが出版した『人類最後の世紀』からとったものであり、21世紀はもしかしたら人類最後の世紀になるかもしれないという警告に対して、ご自身の考えを述べられたものである。

 眞理子氏はまず、イギリスの作家ウィルキー・コリンズが、究極的な破壊力を持つ兵器が発明されて誰もそれを使うことができなくなれば戦争はなくなると夢想したが、今日に至るまで戦争そのものはなくなっていない現実を指摘する。

 さらに、「究極のゴミ問題」であるところの原子力発電所の核廃棄物間題、また、人類というたった一種の動物が、化石燃料・核燃料を含めて地球表面の全生産性の1.2倍にあたるエネルギーを使うようになっていることなどの問題点を指摘している。

 これらのご指摘にもあるように、21世紀の人類の課題は、テロ撲滅だけではない。21世紀を最後の世紀としないための努力が何よりも求められている。

 もっとも、紙面の都合もあったのだろうか、この記事に限っては、これらの問題を解決する方策は何1つ示されていない。最後の段落で
人間の知的な活動には、限界がないかもしれない。人間は、好奇心も含めて自分たちの欲望をかなえるために、この知性を最大限に利用してきた。21世紀が人類最後の世紀となるかどうかは、今度は、欲望の制御のために知性をどれだけうまく使えるかにかかっているような気がする。
と述べているだけだ。著作の多い眞理子氏のことだから別のところではちゃんと提言されているのだろうが、ご専門の動物行動学や行動生態学がこの問題にどのように貢献できるのか、ぜひ知りたいと思う。




 ところで、今年の8月にはスキナーの『Science and Human Behavior(科学と人間行動)』(1953年)の和訳書が二瓶社から出版された(ISBN4931199933、4,200円。生協書籍検索では「バラス・フレデリク・スキナ− 河合伊六」となっている)。原書の出版からちょうど50年後のことである。筆者もこのうちの3章分を担当していた。

 この書は、眞理子氏が「欲望の制御のために知性をどれだけうまく使えるか」と投げかけた問題に、行動分析学の立場から答えたものであった。第一章は、17世紀の中頃の科学者、フランチェスコ・ラナ(Francesco Lana)の引用から始まっている。ラナは空気よりも軽い船を空気の海の上に浮かべることができると主張し、その建造方法も示唆したのだが、実用化のテストには踏み切らなかったという。その理由についてLanaは
……神はこの発明を実用化するのを決して許さないだろう。それを実行すると、人類の手による政治が壊されるかもしれない。たとえばわれわれの船は、いつでもどこの都市の上にでもすぐに行くことができ、降下して兵士を送り込めるので、どの都市もわれわれの攻撃には対抗できない。同じことは、個人の家屋にも海に浮かぶ船についても言えるであろう。なぜなら、われわれの船は、空中から降りて海上にいる船の帆のロープを切ったり、降下しないまま引っかけかぎを投げ下ろして船を転覆させ、兵士を死亡させることもできるし、花火や人工の稲妻で火災を発生させることもできるからである。この攻撃は船だけでなく、大きな建物、城、都市に対しても行なえる。その攻撃は、鉄砲や大砲の射程以上の高度から行なえるので、地上にいる相手側からの攻撃に曝されずに、安全に実行することができる。
と述べている。ちなみに前書きによれば、この引用は、Ashley-Montaguが1939年8月25日号のScience誌に紹介して読者の関心を集めたものであるという。スキナーがこれを引用したのは第二次大戦後間もない時期であり、航空機や原子爆弾による無差別大量殺戮が現実に行われ、科学の危険性が強く印象づけられた時期でもあった。

 それから50年が経過し核兵器の使用自体は抑止されてきたが、昨今の米国での同時多発テロ、その後の米国によるアフガニスタンやイラクでの戦闘行為を見ると、Lanaの予想に反して、神によって禁じられていたはずの道具がますます精巧かつ強力なものに作りかえられ現に使用され続けていることを憂慮せざるを得ない。

 『科学と人間行動』の趣旨は、

●科学を人類の平和と幸福のために限って活用するためには、科学を扱う行動についての行動科学が必要である
という点にあったのだが、昨今の世界情勢の現実は、その目標がいまだ未達成であることを強く印象づけている。




 スキナーがこの書、あるいは『第二ウォールデンWalden Two』といったユートピア小説でめざした社会がこの先実現するとは私も思っていない。しかし、行動分析の基本原理は、「欲望の制御のために知性をどれだけうまく使えるか」を体系的に示したものである。それは、政治を支配する者に悪用される道具にもなるし、支配されている者がその仕組みを知り、よりよい社会に作り替えようとする時にも役立つ知識になる。




 眞理子氏の話に戻るが、単に21世紀を最後の世紀にしないことだけを目的に社会を作るのであれば、民主主義は必ずしも前提にはならない。例えば、地球環境を神と崇める独裁者が地球を専制支配したとする。産業廃棄物の不法投棄、目先の利益だけをめざした干潟破壊、二酸化炭素放出などはすべて、地球という神に対する冒涜となるので厳罰に処する。こういう支配者が地球を一元支配すれば、おそらく今よりよい環境が実現するであろうし、対立者が出てこないので戦争も起こりえないことになる。

 では、そういう独裁支配はどうしてダメなのか。民主主義でないからダメだというのではまだ考えが足りない。もしそう主張するなら、なぜ民主主義でないとダメなのか、根拠を示す義務があると思う。

 地球環境を神とする独裁国家がダメであると思われる一番の理由は、人間の行動が根本的に自己にとって都合のよい結果によって強化されやすい点にあるのではないかと私は思う。そういう独裁国家の中では、いずれ官僚主義が横行し、本音とタテマエが使い分けられるようになる。独裁国家の中ではそれを批判し、覆すことは容易ではない。

 スキナーの言っていることは理想論に過ぎないという批判も多々あるが、どっちにしても、人間は、好子(=正の強化子)で強化されていく中でしかちゃんと行動しないのである。罰的に統制されれば必ず抜け道を探す。結局のところ、「欲望の制御のために知性をどれだけうまく使えるか」というのは正しい表現ではない。強化の理論というのは、極言すれば

●欲望の制御のために欲望をどれだけうまく使えるか

ということだが、これじゃあ、あまりにも格好悪い。もう少しよく言い換えるならば、

●欲望の制御のために、欲望で裏打ちされた知性をどれだけうまく使えるか

にかかっていると言ってよいのかもしれない。なお念のためおことわりしておくが、ここでいう「欲望」は、行動分析では本来排除される言葉である。さらに正確に言うならば、

●好子によって強化されている行動を制御するために、好子によって強化される知的行動をどれだけうまく使えるか

となるだろう。