じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 梅雨明けとともにいっせいに赤みを増したトマト。借りている畑のトマトは1ポット50円程度の安物と、前年に落ちた種から自然に生えた苗が大部分であるが、写真は1ポット298円も投じて買った高級苗。大事に育てたせいもあるのだろうが、さすが、実のつきかたは良好。味もなかなか。


7月27日(日)

【思ったこと】
_30727(日)[心理]阪神ファンの心理

 7月27日の朝日新聞文化欄に

阪神ファンは信心深いんや 応援する心理を考える

という高橋豪仁・奈良教育大助教授(スポーツ社会学)の興味深い論考があった。

 阪神タイガースは、1985年の22年ぶり優勝以来、Bクラス15回、うち最下位が10回にも及ぶ低迷を続けてきたにもかかわらず、観客動員数がBクラスになったのは4回だけであるという。低迷を続けていたにもかかわらず、なぜ多くのファンが甲子園に集まり続けたのかを考察するという内容であった。

 高橋氏の論点を長谷川のほうで引用させていただくと、
  1. 甲子園球場の集合的応援は、試合の状況に合わせて規格化されているので、そのノリに乗ることさえできれば、誰でも容易に参加できる。
  2. 甲子園の「集まり」は、いわば膜に包まれ、外部とは異なるルールが存在し、固有のリアリテイーが形成されている。その世界に没入できれば、人々はその中で維持されているリアリテイーに、自然さや気楽さ、確かさを感じ、ユーフォーリア(多幸状態)に至ることになるのである。
  3. 単調な動作を繰り返しながらマウンドを見ている時は、意外と無心だ。応援の身体的運動が、常行三昧となり、ちょうど念仏を唱えながら修行する時の心の状態に近くなっているようだ。
  4. 応援でも、豊穣を神に願う農耕儀礼と同じように、自分のチームの勝利を願う。日本の神話的思考に基づいた呪術的な行為が表出しているのかもしれない。
  5. 【17年にもわたり低迷を続け】応援の呪術が失敗した時、阪神ファンは自分で自分の欲望を鎮める物語を創造しなくてはならなかった。...ファンの本意は、期待を裏切られても憎めない、出来が悪い子ほど可愛いという親心にある。この17年間阪神ファンは、弱いタイガースをありのままに受け止めるという諦観の物語を創らずに、ファンを続けることはできなかった。
 なるほど社会学者が考察するとこういう見方ができるのか、と唸ってしまったが、「そうかもしれない。だが別の見方も否定できない。」という点がいくつかあるように感じた。

 まず、この論考では、そもそもなぜ阪神ファンが多いのかという説明が無い。7月21日の朝日新聞世論調査(電話調査)によれば、好きな球団は巨人34%、阪神19%、3位が中日とダイエーの各4%、残りは3%以下であったという。これは支持政党でも同様かと思うが、プロ野球のファンには強固な一貫性がある。いったんあるチームを応援するようになると、他チームが勝つことは嫌悪的になる。ひいきの選手が移籍したような場合を除けば、滅多なことで応援するチームを変えるということはあるまい。

 それゆえ、1985年、あるいはそれ以前のある時点で阪神ファンが相当数存在していれば、いくら最下位に低迷していても応援し続けるであろう。何はともあれ、初期条件としてなぜ阪神ファンが多かったのかを明らかにすることが先決である。

 次に、高橋氏は、甲子園球場の独特な集合的応援が球場にファンを引きつける要因になっていたと指摘しているが、私が学生・院生時代に甲子園に足を運んでいた頃には、あのようなバット型のメガホンやら、7回裏にいっせいに舞い上がる風船のようなものはまだ売られていなかった。つまり、独特異様な応援形態がファンを球場に呼び寄せているのか、それとも、別の原因で球場に呼び寄せられたファンたちが、使用可能なグッズを組み合わせて独自の「応援文化」を作り出したのか、因果関係は定かではない。

 高橋氏は、メガホンで打ち鳴らされる「バゴッ、バゴッ、バゴバゴバゴ」というリズムが、日本各地で冬至前後の夜に行われる農耕儀礼において、ビンザサラという楽器で奏されるリズムと一致しているという、構造人類学者の北沢方邦氏の見解をひいて、「応援でも、豊穣を神に願う農耕儀礼と同じように、自分のチームの勝利を願う。日本の神話的思考に基づいた呪術的な行為が表出しているのかもしれない。」(ただし、矢野捕手のテーマ曲のリズムは、上方締め(大阪手打ち)の一部が用いられているという)と指摘された。

 プロ野球であれ高校野球であれ、アメリカなどと異なった応援風景が日本の野球場で見られることは確かであるが、それを、「神話的思考に基づいた呪術的行為」の表出に結びつけようとするのは、いかにも社会学者や人類学者的な発想かと思う。しかし、もっと単純に、こう考えることもできるだろう。要するに野球場では、応援に使用できるグッズは制限されている。また、野球は、サッカーなどと異なって、それぞれの投球、それぞれの打席がdiscrete(個別試行的)に展開するため、比較的単純なリズムの繰り返しにならざるをえない。そういう中で、物を打ち鳴らして作るリズムが似てくるという可能性も考えておく必要があると思う。

 高橋氏が最後に指摘された「今年は、強い阪神が諦観の物語を裏切り続けている」というのはその通りかと思う。しかし、そう考えていくと、今年の「弱い巨人」を応援し続ける巨人ファンはどういう「諦観の物語」を作るのか、興味が持たれるところだ。金曜日からの三連戦の観客動員数を比較すると
  • 金曜日:ナゴヤドーム(中日vs阪神) 40500人。ヤクルトvs巨人は雨でノーゲーム。
  • 土曜日:ナゴヤドーム(中日vs阪神) 40500人。神宮球場(ヤクルトvs巨人) 45000人。
  • 日曜日:ナゴヤドーム(中日vs阪神) 40500人。神宮球場(ヤクルトvs巨人) 45000人。
 中日ファン、ヤクルトファンも多いので一概には言えないが、7月27日終了時で4位、45勝44敗、首位阪神と19.5ゲーム差の巨人を応援するためにこれだけ多くの人たちが神宮球場に集まってくる心理はどんなもんなのか、合わせて説明できる論考が求められているように思う。