じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [写真] 胞子排出前のノウタケ(左)とキクメタケ(右)。チョコレートをかけたように見える。この写真にもあるように、大学構内には少なくとも2種類のノウタケ属のキノコがあるようだ。


7月1日(火)

【ちょっと思ったこと】

砲弾入り宅急便の推理

 静岡県裾野市のヤマト運輸静岡主管支店で6月30日、仕分け作業中の荷物が爆発し、アルバイト従業員が軽傷を負った。7月1日朝のラジオニュースでは、機関銃の弾のようなものが爆発したようだと伝えられていたが、その後の捜査により、この荷物の中味は、富士宮市の板金工がネット販売の目的で、東富士演習場から拾い集めた砲弾であることが分かったという。

 ラジオでこのニュースを聞いた時には、いよいよ日本でも爆弾テロか、あるいは暴力団の仕業かと感じたが、送り主が容易に特定できたのはちょっと妙だと思っていた。捜査結果を聞くとなるほどそうだったのかと納得する。

 シャーロックホームズが実在していてこの捜査を依頼されたら、現場にかけつける前から、「裾野市、機関銃の弾」というキーワードだけで、演習場がらみの事件であると直観したに違いない。

 それはそれとして、先日のイラク帰りの毎日新聞記者の事件といい、今回のネット販売といい、砲弾・爆弾類に対する警戒心の無さにあきれてしまう。

【思ったこと】
_30701(火)[心理]心理学研究の情報的価値(1)

 火曜日16時からの大学院の授業で、心理学の実験が、ある分野の研究を体系的に記述したり、何らかの理論を展開する際に、エビデンスとしてどのように引用されているのかという話をした。

 こちらの論文でも指摘しているように、1つの実験によってある法則が実証されるなどということは原理的にありえない。研究者は、自分の仮説が成り立つように最適のパラメターを設定し、仮説と一致した結果を報告しているにすぎない。つまり、「仮説から予測される結果と一致する一事例が得られた」とは言えても、「本実験の結果により仮説が実証された」などとはとうてい結論できないのである。

 ではどういう時に、心理学実験には情報的価値があると言えるのだろうか。今回の授業では、その1つとして「発見的価値」を取り上げた。

 教材として使ったのは、『こどもの発達・学習・社会化』(柏木恵子、1978年、有斐閣)というかなり古い本の第4章である。ちなみの著者の柏木先生は1932年のお生まれであると書かれてあったが、最新の『心理学研究』誌にも第一著者として原著論文を掲載されている。このほか、心理学資格問題でもご尽力されている。

 この本の特徴は、各章至る所に、[資料]としてさまざまな実験が紹介されている。それらは主として、発見的価値を持つ研究であった。

 例えば、[資料23]として上げられているダービーとリオベルの実験(1959)というのは、二匹ずつペアにしたサルの弁別学習の成績を比較したものである。二匹は交互に単独で弁別訓練を受けるが、訓練を受けないほうのサルは傍らでそれを見ることができる。結果的に、あとから試行を行った「観察者」サルのほうが成績が優れていたというのが、ここでいう発見的価値である。

 実験そのものの信頼性や内的妥当性(ちゃんと測定されていたか、他の要因は紛れ込んでいなかったか、...)はとりあえず問題にしない。ここで評価されるのは、「サルは観察学習ができる」という一例を示したことである。サルの物まねは経験的には知られているが、いくら一般常識であっても、実験的な証拠が無ければ体系的記述に用いることはできないのである。

 「サルが観察学習できる」という一例に発見的価値があるのは、科学的研究が「まずゼロから出発する」というスタイルをとるからである。すなわち、まずは「動物は何も学習できない」から出発する。しかし、動物が学習できることは、ちょっとした実験で簡単に示せる。そこで次の段階として、「動物は直接体験(その個体の行動への強化)ばかりでなく、観察学習もできる」ということが示せれば発見的価値があることになる。

 ここで注意しておきたいのは、この実験は、何も「すべてのサルは観察学習ができる」と言わなくてもよいという点だ。比較する2個体の中だけで偶然ではない差が得られればそれでよいのである(但し、2個体はカウンタバランスしておく必要あり)。

 では、血液型性格判断の「研究」として、例えば、ある集団20人においてO型者が18人を占めていたということには発見的価値があるのだろうか、いや、否である。

 もし単に、全数記述として、「この集団はO型者が圧倒的多数を占めていた」と結論するだけなら何ら問題ない。それは事実以外の何物でもない。問題なのは、その集団を1つのサンプルであるかのように扱い、O型者全般の普遍的特性があるかのように、一般「法則」の証拠として論じてしまうところにある。

 上記のサルの「観察学習」の場合、観察学習がすべてのサルで可能であろうが、1万頭に1頭という天才サルだけで可能であろうが、情報的価値はあまり変わらない。しばしば伝えられるチンパンジーの言葉の学習の場合も同様である。