じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 講義棟の南側に咲くニゲラ。もう何年もほったらかしにしてあるが、種がこぼれてこの一帯を埋め尽くしている。


5月8日(木)

【ちょっと思ったこと】

日本の首都は京都?

 一日前の話題になるが(←最近、この書き出しが多くなってしまった)、NHK「その時歴史が動いた:第133回 幕末ニッポン・幻の遷都計画 〜江戸か大坂か?大久保利通の大改革〜〜」を視た。内容は番組記録サイトの通りであったが、面白いと思ったのは、大阪遷都よりむしろ東京遷都にまつわる経緯のほうだった。

 江戸時代、日本は徳川幕府によって実効支配されており、その意味では江戸はすでに日本の首都として機能していた。そういう意味では、1868年に江戸城が無血開城されたというのは、権力交代という点で明白であるように見える。しかし考えてみれば、江戸幕府のショウグンといえども形式上は天皇によって任命されて初めてその地位につくことができるわけで、そういう意味では日本の首都は「鳴くよウグイス平安京」以来、ずっと京都であり続けたことになる。

 今回の番組によれば、幕末の最終局面ではまず大阪遷都論が持ち出された。それ自体は潰されたが、大阪行幸の実現により天皇は初めて外の世界にふれることができた。その後の江戸城入城も、その当時においては「遷都」という言葉は使われておらず、東幸(とうこう)(東京行幸)として実現されたものであった。明治政府自体も一度も東京に都を移したとは表明していないというのだから驚きである。

 番組記録サイトの資料には、「昭和18年(1943)7月1日に、東京府と東京市が統合されて「東京都」が誕生しますが、これは「日本の首都を東京にする」という宣言ではありません。」と記されており、さらに、ネットで検索したところ、首都移転問題ABC(東京都知事本部企画調整部首都調査担当)に

現行法令では首都の場所については、明確に規定したものはありません。

という記述のあることが分かった。

 要するに、日本の首都が東京であるというのは全くの思い込みであり、形式上の首都は794年以来ずっと京都であり続けたと言えるのかもしれない。

 余談だが、母方の祖父母の家が八王子市の浅川(現在の「高尾」)にあったため、子どもの頃から何度か多摩御陵を訪れたことがあった。言うまでもなくそこは大正天皇の御陵(現在はその隣に昭和天皇陵がある)であるが、そのころから、明治天皇の御陵はいったいどこにあるのだろうか? 明治神宮の中なのだろうか? とずっと疑問を持っていた。大学に入って京都市の地図を眺めていた時に、伏見のあたりに「明治天皇陵」の文字を見つけ驚いたことがあった。

 歴史的な経緯はよく分からないが、明治天皇陵が京都市内に作られたということは、その時点では「首都=京都」という意識が当時の政権中枢に残っていたことを裏付けているようにも思える。その後、大正天皇陵が八王子に作られた時までになんらかの変化が起こったのではないかと、素人なりに思ってみたりするのだがどうだろうか。




SARSの致死率

 各種報道によれば、SARSによる死亡者は5月8日時点で500人を突破、また患者数は可能性例を含めて7000人を超えたという。犠牲者500人という数は、交通事故やテロに巻き込まれて死ぬ確率よりは遙かに少ないように見えるが、患者数に対する割合から言えば非常に危険な病気であることが分かる。

 この致死率について、私は単純に、死者数を患者数で割ればよいものだと思っていた。しかし、5/9の朝日新聞記事によると、そのような計算では危険性を見誤る恐れがあるという。というのは
  • (死者数÷患者数)では、これから死亡する患者の数が分子に含まれないため致死率は低めになる。
  • ある時点での死者数と、快復者数の合計を分母にした場合は、快復途上にいる人が含まれないため、致死率は高めになる。
 これらを勘案した致死率は、WHOの推計では14〜15%になるというから恐ろしいことだ。

 この病気のことで今ひとつ分からないのだが、いったん感染して快復した人は生涯免疫ができるのだろうか。もしこのことさえ確かならば、快復者に特別の手当を出して、患者の介護や治療補助にあたってもらうことができる。その場合、もはやマスクも要らないことになる。その一方、不幸にして亡くなられた方はまことに気の毒だ。ここでは致死率の計算のことを取り上げてみたが、亡くなられた方やそのご家族の苦しみを「死者数」という数字だけで安易に扱わないよう配慮をする必要もある。