じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 瀬戸大橋開通から満15年になるという。15年前といえば、まだ長崎に住んでいた頃である。1988年4月に長与ニュータウンの公園で撮影した桜の写真と、今年の3月30日に同じ場所を訪れた時の写真を重ねてみた。


4月9日(水)

【ちょっと思ったこと】


あがるということ

 夕食時にNHKためしてガッテン実力満開!あがり症克服大作戦を見た。卒業式の送辞と答辞(←実際は両親への感謝)の代表に選ばれた中学2年生男子と3年生女子が短期間に、あがり克服のトレーニングを受け、見事大役を果たすというのが感動的だった。

 ちなみに私自身は、幼稚園年中組の時に、在園児代表として送辞を暗唱したのが大勢の前で話をした最初であったと思う。いまでも「つきぐみの おにいさん おねえさん ごそつえん おめでとうございます。 たのしかった...」という言葉が頭に焼き付いている。その時に度胸がついたせいだろうか、その後も、ピアノの発表会とか入試とかあったが特に「あがる」ということはなかった。いま現在は週に何コマも授業をしているし、学会でのシンポや講演もある。「あがる」などということは全く考えられなくなった。

 もっとも、番組タイトルの「実力満開!あがり症克服」という意味は、実力を十分に身につけた人が、「あがる」という阻害要因を克服してその実力をいかんなく発揮できる状態にもっていくということを意味している。もともと実力の無い人は、あがりを克服したところで何も示すものがない。せいぜい、羞恥心の無いヤツだ、ぐらいにしか思われないだろう。

 私自身、まだまだ修練が足りないのだが、授業や講演は、あがらなければそれでいいなどというものでは決してない。時間配分、達成目標などを考えれば考えるほど、準備で思い悩むことが多い。

 学生の発表などを聞いていても、あがっていてうまく喋られない人もいるが、それはまだいい。あがっていないのに、要領が悪くて何を言いたいのか、ちっとも伝わってこない人のほうがもっと困る。「あがっていたから」というのは実は準備不足の言い訳として使われている場合もある。




瀬戸大橋15年

 4/10は、瀬戸大橋が開通してから15周年にあたるという。ローカル番組の特集シリーズを何度か見たが、開業当初にぎわった与島の施設は経営者が交代、近隣の観光施設なども、遠方からの観光客ではなく地元住民参加型の施設へと様変わりしているという。いっぽう、岡山と四国を頻繁に往復するトラックは、相変わらずフェリーを利用する業者が多く、通行量の引き下げが求められているとか。

 もっとも、この橋の一番の強みは、鉄道が併設されていることだろう。鉄道による輸送人員を含めれば、明石海峡大橋よりはるかに貢献度は大きい。こちらの資料によれば、「瀬戸大橋線のご利用が開業から今日までに1億4千7百万人(2月末現在)に達し、観光・レジャー、通勤・通学など、様々な方にご利用いただいております」ということだ。橋の役割を正当に評価するには、このことを忘れてはなるまい。

【思ったこと】
_30409(水)[心理]質的分析と行動分析(5)質的に研究するとはどういうことか?

 澤田・南 (2001、質的調査〜観察・面接・フィールドワーク[南風原朝和・市川伸一・下山晴彦 (編).『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』.東京大学出版会] )は、「質的に分析するとはどういうことか?」について
 たとえば,青と赤という色の違いを波長の数量であらわすこともできるが,それは2つの色を光学的に説明したものであって,「青」,「赤」という名称に対応した人間の知覚体験の違いをあらわしたものではない.この例に即して考えれば,心理学における質的な分析とは,「青く見える」体験を,記述し,そこに含まれる成分,構成要素を明らかにし,他の類似の体験との関係において,この体験の特質・特徴を際立たせることである.
 量的な分析が,測定された変数の間の相互関係を明らかにするための諸手続きからなるのに対し,質的な分析は,前述した質的なデータ,資料をもとにして,その内容の解釈(意味を読み取ること),分類(似たものを集めること),類型化(タイプ・様式に分けること),概念化(共通の性質を取りだして名づけること)などの作業から構成される.さらに,このようにしてデータから取り出された概念を関連づけたひとまとまりのアイデア〜仮説〜を作りだすことまでを含めて質的分析とよぶことができる.

と述べている。もしこのような区分を受け入れるとするならば
  • 量的分析=測定された変数間の相互関係を明らかにする
  • 質的分析=体験の記述、解釈、分類、関係
と特徴づけられることになり、方法論的にも最終目的においても行動分析などとは根本的に異なる方向を目ざすことになる。

 じっさい澤田・南 (2001)は
質的研究は,初期段階の研究,すなわち未熟な研究ではなく,量的研究法による実証化の道とは異なる認識論にもとづく方法論であり,それ独自の洗練の方向性をもっている.
と強調している。後述するように、行動分析学の研究対象となる「体験」とは、行動随伴性で記述可能な強化や弱化や消去のヒストリー、それによって形成されるルール、及びそれに関わる言語報告から構成されるものである。それらは、上に挙げられた「体験の記述、解釈、分類、関係」とはかなり異なったものになるであろう。




 ところで澤田・南 (2001)は、「なぜ質的な研究をするのか?」について、それらが単なる探索的な研究方法であるという見方を排し、その特徴として
  1. 帰納的である.
  2. 対象となる事態と人々を全体的に見ていく.
  3. 研究者自身が対象者に与える影響に敏感である.
  4. 対象者の視点から相手を理解しようと努める.
  5. 研究者の信念、視点、事前の前提をいったん保留する.
という5点を挙げている。しかし、これらは必ずしも質的なアプローチに特有というわけではない。じっさい、行動分析的アプローチは決して「質的」ではないが、仮説検証型や仮説演繹型の研究には否定的であったし(例えばSkinner, 1950、Are theories of learning necessary? The Psychological Review, 57, 193-216.)、常に対象者本位で、何が好子や嫌子になっているのかを探索する。また最近ではホリスティックな視点からのアプローチも検討されている(こちらや、こちらの考察参照)。