じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 天気がよかったので夫婦で半田山植物園へ。しだれ梅(写真)のほか、彼岸桜、水仙、アイリス、フキノトウなどの花を見ることができた。


3月23日(日)

【ちょっと思ったこと】

だいたい静かだった統一地方選/夫婦喧嘩していると投票できない?

 3/23は統一地方選の投票日だった。選挙期間中、一度も町中に行かなかったせいもあるのだろうが、市長選の宣伝カーは一度も通らず、また、市議選のほうは地元選出を強調する某候補が毎日のように「これから行ってまいります」と「ただいま帰ってまいりました」を連呼するのがひどく喧しかったほかは大した騒音もなく、「うるさい日本と私」にならずに済んだ。

 ところでこの選挙の投票券だが、所帯主である私あての封書に夫婦の分2枚が同封されていた。これまでは確かハガキで届いたと思っていたのだが、いつから変わったのだろう。我が家では特に問題なかったが、夫婦喧嘩をしていたり離婚寸前の夫婦の場合、投票券を受け取れないというトラブルは起こらないのだろうか。いくら選挙とはいえ、所帯主あての封筒を妻が勝手に開けることはできない。また、所帯主が「この選挙はボイコットするぞ」という思想の持ち主だった場合、封書を開封せずに捨てるということだってあるかもしれない。もちろん、投票券が無い場合でも投票は可能だと思うが、夫婦間のトラブルが全く無いとはちょっと信じがたいところがある。

【思ったこと】
_30323(日)[教育]大学教育研究集会/大学教育改革フォーラム(7)高等教育における教育改革と経営改善(2)

 3/15午後に京大で行われた第9回大学教育改革フォーラムの感想の続き。3番目は、某私立大学のH氏による「私大にとっての教育改善と経営」という話題提供であった。

 H氏は独法化やCOEなどのしがらみから自由なお立場にあり、昨今の大学改革問題について数々の直言を表明された。

 まず、平成10年以降に大学審・中教審が設定した課題について
  1. 「質的向上」と「(入学者の)多様化」への対応
  2. “規制緩和”と“競争環境”による問題の解決?
  3. “自主的”で“自由な”改革は本当に進んだのか?
という3点を挙げられた(抄録からの引用)。短期間のうちに、自己評価→第三者評価→認証機関というように“結果を待たずにせかされた”改革になっているところは私も同感だ。行動分析学の研究でもそうだが、そもそも改革についての評価というのは、一定期間ベースラインを測ったうえで何らかの改革を行い、その成果が改革にもたらされたものなのかを念入りに点検して初めて意味のあることだ。現実には、自己評価や外部評価などといっても、いろいろな調査票に基づいて委員が作文を行い、りっぱな報告書として製本し本棚にかざるだけに終わっているきらいがないとも言えない。いま行われている中期目標・中期計画もヘタをすると「一定の成果が得られたが今後なお改善が求められる」という抽象的な評価だけで終わってしまう恐れがある。

 次に1件平均1億5000万円にものぼるCOEについて。経営的には大いにプラスになる反面、“選ばれなかった”ショックとマイナス効果?もあるという。このあたり、私の大学にもあてはまるかもしれない。競争のルールとプロセスの明確化が求められるというご指摘はまことにもっともだ。

 3番目は、入学者の多様化への対策についての問題点。まず、「学位」や「単位」についての基準がグローバル化に対応できる水準になっていないことが指摘された。新しい「学位」が次々とつくられ現在250くらいになっているとか。単位は「共通通貨」になっていないという問題点がある。

 4番目は教育重点大学(COL)について。ここで初めて知ったのだが、COLは「Center Of Learning」の略だという。COEとは異なり実質的には“金一封”程度の額にしかならないが、名誉なことでもあるし、入学者へのインセンティブにもなる。ご指摘のように、こういう点でのコントロール効果は抜群であろう。




 後半は、教育改善と経営との関係についてのコメントであった。現在、教員一人あたりの学生数は、東大で9人、京大で12人、私大では40〜50人。但し私大でも20人台後半の大学もあるという。いずれにせよ、学費に対してのアカウンタビリティが問われる時代となってきた。

 なるほどと思ったのは、学生に対するアカウンタビリティと、学費負担者である保護者に対するアカウンタビリティは異なるという指摘である。学生、特に学習意欲の低い学生は、授業がちゃんと行われていなくても、最少のエネルギーで単位が取得できればそれで満足。いっぽう保護者としては、高い学費を払っている以上は、毎日ちゃんと大学に通ってもらわなければ満足しない。

 研究と教育の関係については、学費負担者に対するアカウンタビリティは教育で証明するしかなく、研究だけを目的とするなら研究所という形態のほうが目的合理的であるとの指摘があった。このことで思い出したが、3/6の読売オンライン「教育新世紀」によれば、埼玉大学では2004年度から理工系の学部と大学院の組織を見直し、研究と教育それぞれに専従教員を配置する方針を決めたという。しかし、これなども、本来ならば、研究所新設と、教育に重点を置いた学部・大学院の教員組織を分離するという形で改革を進めるべきではないかという気がしないでもない。

 最後に大学生の「学習意欲の低下」については、
  • 高校までの基礎学力の低下
  • 大学生としての学習skillの問題
  • 将来の目標進路に関わる問題
という3つの側面があり、“入学時の学力低下”よりむしろ入学後の“学習意欲の低下”こそが真の問題であると指摘された。柳井晴夫(2002)によれば、この学習意欲低下は、経済・商学、法学、工学の一部で、1992年から2002年のあいだに顕著になってきているという。

高等教育学力調査研究会(代表:柳井晴夫)『大学生の学習に対する意欲等に関する調査研究』報告書、平成12・13年度文部科学省教育改革の推進のための総合的調査研究委託報告書.

 専攻を大括りにするとか、副専攻を設けるといった改革についての主張、こうした資料、さらには当該学部における学生の特質を十分に調査した上で、ニーズに基づいた検討をしていかないとトンデモないことになると思う。机の上だけで理念を振り回して案を練っても、決して実りある改革にはならない。実証と、確かな予測に基づく改革が求められる。