じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 京大の西部構内、3/15撮影。500名規模の参加者で吉田食堂が大混雑していたため、西部食堂で昼食をとった。写真奥は有名な西部講堂。私自身は学生時代を含めて一度も中に入ったことがない。屋根の3つの星は武力攻撃の対象にならないかどうかちょっと心配だ。左手の平屋の建物群は文系サークルボックスや生協の自転車ショップなど。今でも全く変わっていないようだ。
写真より右側に位置する西部食堂は、私が入学した頃は、2階が食堂、1階は統一厨房(大学構内の各食堂に調理済み食材を提供する施設)と喫茶があった。その後、統一厨房方式を取りやめたらしく、現在は文具や本などの売り場に改装されている。
それにしても、このだだっ広い空き地、あまり有効活用されているようには見えないのだが...。


3月17日(月)

【思ったこと】
_30317(月)[教育]大学教育研究集会/大学教育改革フォーラム(3)「よく解った授業」こそ良い授業か

 昨日に引き続いて、午前中に行われた第2回大学研究集会について感想を記していきたいと思う。今回は、2番目の発表に関連して「よくわかる授業」こそ理想の授業なのか、について考えてみたい。

 話題提供の内容は、「授業の苦情改善法」や「授業検討会」についての紹介が中心であったが、抄録に記されていた
●授業の評価は、ストレートに「学習者が、よく解ったか(よく学べたか)どうかである」。学習者がよく解ってこそ、良い授業と考えるべきなのである。
という記述がインパクトを与えたのか、討論の時間には私自身を含めて3人から、このことについての質問・意見が出された。

 大学の授業に解りやすさを求めるのは当然ではあるが、問題はその中身なのである。例えば小学校レベルでの「解りやすさ」とは、新しく習う内容についてうまく説明ができているかということのほか、学習意欲を高める工夫、自分から問題を発見する力の基礎を養うことを含んでいる。大学予備校ではこれとは違って、とにかく入試の得点を少しでも高めるための技術がどれだけ身につけられるかが「解りやすさ」のすべてとなっている。

 では、大学における授業ではどういう「解りやすさ」が求められるのだろうか。たまたま今年の3月に発行された『OU-Voice』(岡山大学教育開発センター広報委員会編集発行)の第5号で「望ましい授業とは」という特集があり、私自身は次のような考えを表明した。要点をまとめると、
  • 大学の単位は、
    【1】教員が教室等で授業を行う時間
    【2】学生が事前・事後に教室外において準備学習・復習を行う時間(おおむね【1】の2倍の時間)
    の両方に基づいて構成されていること、つまり、望ましい授業とは、【1】と【2】をセットにして初めて可能になるという点だ。したがって、どんな名講義であっても、学生の予復習を前提とせずに単位が与えられたとしたら、それは欠陥授業ということになる。
  • ちなみに、この基準は、「21世紀の大学像と今後の改革方策について ―競争的環境の中で個性が輝く大学―」という、大学審議会(当時)の平成10年10月26日答申の中で強調されており、その基準があればこそ履修科目登録の上限設定が行われ、さらには内外からの信頼に足る大学教育の質が保証されるのである。
  • 受講生は単なるお客さんでない。受講生には毎回授業に出席し積極的に質問をしたり討論に参加したり授業を盛り上げる義務がある。授業は気が向いた時に訪れるレストランとは違う。
  • 望ましい授業にはさらに重要な必要条件がある。それは、その授業が何を目的に行われているのか、それを受けることによって受講生は何が達成されるのかが明確であるという点だ。かつて、大学の授業内容は、「学問の自由」の取り違えにより、各教員の自由裁量により実施されていた時があった。しかし今や、 時代の変化や社会の要請に対応した教育が大学に強く求められている。 教員の学術的関心のみから展開するものではないという点を特に強く指摘しておきたい。
  • そのためには、教員が個別に担当する個々の授業のみならず、カリキュラム全体についての明確な目標、それを達成するための体系性が求められている。
  • 望ましい授業というと「話が分かりやすい授業」、「板書が上手、あるいは教材が適切に活用されている授業」などを思い浮かべる方がおられるのではないかと思う。もちろんこの点で手抜きがあってはならないし、FD専門委員会としても、授業そのものの質的向上をめざして、教員相互の授業参観(授業公開)、全教員を対象とした授業改善のためのアンケート、教育方法に関する研修会、新任・転任教員に対する研修会などさまざまな取り組みを行っている。
  • しかし、教員側がどのように努力したところで、能動的な学びなくしては「望ましい授業」は決して成立しないということだ。今後もこのことを前提とした上で授業改善の論議が展開されることを期待したい。
 話題提供のあと、私自身も「予習・復習の指示についてはどう考えておられますか」という質問をしてみた。このほか、「何でも解ってしまう授業ではなく、疑問を生み出すような授業もありうる」というような質問をされた方もいた。

 学生のレベルや分野によっていろいろ異なるとは思うが、少なくとも大学の単位認定の性格から言えば、「何も準備せず、復習をしなくても、教室にやってくればすべて解る」という授業であるならば、通年で1単位(1コマ90分授業なら2単位)与えれば十分である。また予習・復習を必要としないなら、朝から夕までぎっしりと授業を詰め込み、2〜3年で早期卒業させてしまったほうがよい。

 なお念のため言っておくが、ここでいう予習・復習についての指示というのは、大学生ならではの能動的な自学自習のサポートという意味であって、小中学校で課すようなドリルの宿題では決してない。もっとも、今後、少子化の影響で「何を勉強したらよいか解らない」という大学生が増えてきた時には、それこそドリルを与えてでも予習・復習を徹底させたほうが効率的な場合が出てくるかもしれない。さらに続く。