じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[写真]  某神社境内で見かけた立て札。「神社境内」のところを「当駐車場」に置き換えたならありがちな看板ということになるが、神社境内というのは神の御加護の得られる神聖な場所であり、「事故(非常事態を含む)」が起こりにくいところであってほしいと思う。「一切の責任を負わない」という現実的な対応しかとれないのが現代社会における宗教の辛いところか。


3月8日(土)

【ちょっと思ったこと】

記憶と現場とのシンクロ

 今回の集まりは六本木の国際大学、宿舎は二の橋近くのホテルであった。雨の中、ホテルの方角に適当に歩いているうちに、ふと、某私立中を受験したがあえなく不合格になったことを思い出した。算数の問題がエラく難しくて、確か4問中2問くらいしか解けなかった。と思った直後、なっなんと私の左手には、その私立中の門柱があったではないか。自分の思ったこととそこに現れた景色が完全に一致するとはなんというシンクロだろうか。

 おそらく私の記憶のどこかには、受験した当時の景色の断片がパターンとして残っていたのだろう。街並みはすっかり変わっていてもはや再認さえできない状況ではあったが、言葉にもできないかすかな記憶がその当時のことを思い出させてくれたことは間違いない。




名前を記入するリコール住民投票

 滋賀県豊郷町で町長に対するリコールの賛否を問う住民投票が行われるという。そのさい投票用紙には「賛成」「反対」と書くのではなく、賛成欄か反対欄かいずれかのマス目に町長の名前を書き入れないと有効票にならないとい(3/8朝日新聞記事)。

 記事によればこの記入方法は1947年に施行された地方自治法施行規則に基づくものであり、「首長の選挙で投票用紙に名前を書いているのだから、辞めさせる時にも氏名を書くというのは整合性がある」というロジックらしい。もっとも実際には、この記入方法が周知されずに無効票になるケースも1割弱あるらしい。また、町長を支持している人が賛成欄に町長の名前を書いてしまう(あるいは町長反対派が反対欄に名前を書いてしまう)という勘違いも起こるかもしれない。

 いずれ電子投票となれば、こういう問題は解決するとは思うがややこしい話だ。余談だが、すべてが電子投票になった場合、最高裁判事の国民審査はどうなるのだろう。やめさせたいと思う人だけ投票機の前でボタンを押すということでは投票の秘密が守られない。誰もやめさせたくないという人は単に大きなボタンを1回押すということになるのだろうか。

【思ったこと】
_30308(土)[心理]不条理をどう解消するか

 江戸東京博物館を訪れた時に、江戸時代というのはずいぶんと不条理な出来事が多かったのだろうなあと、ふと思った。政治の世界ではさまざまな腐敗があり、それを正そうとしても逆に弾圧される。真実を暴露したり幕府を風刺して発禁になった書物も展示されていた。徳川ショウグンも15代にわたり太平の世を築いてきたように見えるが、家系図など見ると途中で家康直系が遠い親戚に入れ替わったりしている。その過程ではさまざまな権力抗争があったのだろう。

 もっともこれは、江戸時代に限ったわけではない。関東大震災の直後に多くの朝鮮人が虐殺されたことは昨日の日記でも書いたがその不条理は今もって償われたわけではあるまい。226事件についてもいろいろな見方があるが、軍部と財界との癒着を正そうとする純粋な気持ちで立ち上がった将校も居たに違いないと思う。その後の大陸への侵略、東京大空襲、原爆投下などもみな不条理に満ちあふれている。今の世の中でも時たま政治家がお金をめぐって逮捕されたりしているが、これなどはおそらくごく一部。たいがいの事件は、義憤によって摘発されるのではない。何らかの抗争や利害対立があった時に証拠をつかまれた者だけが失脚しているにすぎない。

 こういう不条理を解消するために人間がとってきた方法を思いつくままにあげてみると
  • 正面から立ち向かい、華々しく散るという特攻精神
  • 闇の仕掛け人や正義の味方の登場への見通しの無い期待
  • 死後の世界で救われたり、罰せられるという宗教的解決
  • 自分がヒドイ目にあっても、前世で悪いことをした因果であるとして受容
  • 善悪すべての出来事は起こるべくして起こるものであると考え、それに合わせて生きる道を捜す
  • そういう世の中に嫌気をさすが、死ぬこともイヤなので、もっぱら隠遁生活に入る
といったところだろうか。




 いつの世にも宗教が求められるのは、おそらく、こうした背景があるからなのだろうと、最近つくづく思う。大部分の信者は、別に神(仏)に祈ったからといって病気が治ることは期待していないし、自分に運が向いてくるとも考えていないと思う。にもかかわらず宗教を求めるのは、おそらく、世の中の不条理があまりにも巨大であるために自力で解決する手だてが見つからず、神(仏)にすがることで、心理的な不協和をなんとかして解消したいと思っているためではないか。子供の時からずっと無神論であった私がそういう道に入ることは到底できないが、もしそういう道を100%信じることができたらずいぶんと楽になるだろうなあと思う。

 宗教に頼らずに不条理を解消する別の手だてとしては、現実をありのままに受け入れるという前提のもとで基本原理の体系化をはかることだろう。例えば、「すべての人間は利己的であり、弱肉強食の中で進化する」と考えてしまえば、そもそも悪という概念は存在しなくなり、不条理はすべて解決する。

 ライオンに子供を喰い殺されたシマウマの母親にもし一般人間と同じように思考する力があれば、常識的にはライオンへの復讐をくわだてるはずである。宗教を信じるシマウマであれば、たぶん、子供は神に早く召されたと考える。また、弱肉強食の原理を重んじるシマウマがいれば、ライオンの行為は当然であると確信するに違いない。

 行動分析で言うところの強化・弱化の原理は、基本的には、

●どんな行動であれ、それが起こるということは、生得的もしくは条件づけによるものであり、かつそれらは刺激によって誘発されたものか、もしくは、行動した結果によって強化されたものだ

という考えをとっている。そこにはいかなる「絶対悪」も存在しない。問題行動か望ましい行動かの区別は、自分自身あるいは周囲に与える影響の内容によって区別される。こう考えてみることも、じつはけっこう気が楽になることかもしれない。しかしそのことから直ちに、利己的でずるがしこい生き方が最良であるというような結論は決して出てこない。善や悪の概念を適切に確立し、安心して住みやすい環境づくりを設計することも重要な使命になっているはずだ。

 爆音をならしながら走り去る車、平気でゴミや吸い殻を投げ捨てる人々、もっと大きな「不正」、「詐欺」、「邪悪」と呼ばれるような諸行為、...これらを制御するためには、神の力を借りるのがよいのか、道徳教育の徹底がよいのか、あるいは個々の自己管理がスムーズに実現できるように環境条件を整えることがよいのか、脱線の末ありきたりな結論に終わってしまったが、取り組むべき課題は果てしなく多いように思う。