じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[写真] 成田〜福岡便(1/6搭乗)の機上からの景色の続き。今回は、しまなみ海道。


2月26(水)

【ちょっと思ったこと】

新幹線運転士とナルコレプシー

 各種報道によると、2月26日の15時20分ごろ、山陽新幹線・岡山駅で、広島発東京行き「ひかり120号」が所定位置より約100メートル手前で動かなくなり、運転士(33)が腰掛けたまま居眠りをしていたというアクシデントがあった。居眠りは、岡山到着までの約26km、約8分間続いていたらしく、その間の「記憶が無い」。運転士が「病気ではなく運転できる」と話したため、運転資格をもつ車掌の同乗のもとに新大阪まで運転を続けたという。新幹線の運転士の居眠りは開業以来初めてということで、事態を重く見た当局はさっそく、運転士の健康管理や運転中の声上げの徹底をはかることになった。

 このアクシデントですぐ思い浮かぶのは、ナルコレプシー(2/13の日記参照)である。素人判断は禁物だが、仕事中に8分間も記憶が無い状態が続くなどということは、単純な睡眠不足や体調不良ではきわめて起こりにくい。運転士の日常の健康管理や指さし・声かけを徹底したとしても、防ぎきれないだろう。併せて、これを「怠け者」、「自覚が足りない」、...というレッテルを貼ることも控えなければならない。

 とはいえ、いくら本人に配慮せよと行っても、何百人、何千人もの命がかかっている。当面は、突発的な居眠りが起こっても大事故につながりにくい仕事に変わってもらうしかあるまい。




空気が湿っぽい

 静電気除去器具をキーホルダーにつけているのだが、このところ全く使う機会が無い。空気が何となく湿っぽいなあと思って、岡山の気象を調べたら、19日以降は
1、 1、 1、 13、 3、 1、 0 、1mm
というように、雨が降らなかったのは昨日の前期試験当日のみ。湿気が多いことでインフルエンザは終息に、また花粉飛散が抑えられることになれば結構なことだ。


【思ったこと】
_30226(水)[心理]日本健康支援学会(8)スポーツ行動とQOL/「Quality of Life」とは「気 of Life」のこと

 2/15〜2/16に行われた日本健康支援学会学術集会についての連載。今回は、大会の最終イベントとして行われた会長講演:

佐久本稔氏(九州女子短期大学):スポーツ行動とQOL

について感想を述べたいと思う。

 講演ではまず、人間が、Homo-Modens、Homo-Rudens、そして、Homo-Sportiusであるという言葉を掲げて、スポーツの意義を強調された。R.Morrisの生き方13類型にも言及されたが、これはまた別の機会に考えを述べさせていただく。

 スポーツ行動は全身協応運動の獲得をもたらすが、これには、弓道のようなクローズドスキルと、サッカーのようなオープンスキルがあるという。後者の場合は、文脈が多様に変化するため、それらに即応できるスキルが要求される。




 大学でも一般社会でも、スポーツ非実施者、あるいは「運動嫌い」が必ず存在する。佐久本氏によれば、同じ非実施者の中でも、関心はあるが情報不足型、潜在型に分類されるタイプと、無関心層を形成する拒絶型、くわず嫌い型がある。私自身の場合は、「スポーツをする暇が無い。スポーツに関わる時間があるぐらいだったら他にやりたいことがある。」と考えてしまうので、拒絶型ということになるだろうか。

 もっとも、外国では、スポーツという概念が遙かに広い意味で使われているようだ。配付資料によれば、例えばカナダ(1995年)において、高齢者が参加する運動・スポーツ細目のTop3は、ウォーキング、ガーデニング、家庭での運動となっていた。私などもウォーキングなら毎日2回実践しているし、週に2〜3回はガーデニングもやっている。そういう意味なら、必ずしも運動嫌いではないことになる。




 講演の終わりのほうで、主体性を顕在化していく過程としてスポーツの意義づけがなされた。私自身はスポーツ、特に競技スポーツというのは

●能動的に関わり努力を積み重ねていく行動のセットであり
●それらの行動をすること自体、ある種の内在的結果(スピード、発散など)をもたらすものであるが、
●併せて、適切な大きさで適度かつある程度偶然性を含む確率で、人工的に結果(得点、勝利、金メダルなど)を付加する随伴性が準備されたシステム

として定義することができると考えている。「主体性を顕在化していく過程」とは、おそらく、能動的行動が付加的な結果の随伴の中で精緻化され、リパートリーを増やしていく過程のことを言うのだろう。




 最後のあたりで、佐久本氏は、「気」ということの大切さを強調された。
 私自身は、「気」というものは客観的・科学的には測定不可能なオカルトまがいのものであると受け止めているが、構成概念としてなら、QOLの代わりに東洋的な「気」を使ってもいっこうに構わないと思っている。佐久本氏に語呂合わせの意図があったのかどうかは定かではないが、そう言われて見れば、
「Quality of Life」とは「気 of Life」のこと

と言えないこともない。