じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

2月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[写真] 胡蝶蘭。行きつけの花屋で大鉢800円の処分品として売られていたので購入。翌春も花を咲かせる自信はあるが、たぶん小さめの花が数輪となるだろう。


2月22日(土)

【思ったこと】
_30222(土)[教育]卒論をうまく書くには(前)思い込みとクリシンを併用せよ

 恒例の教室の予餞会(卒業生を送り出す会、「予め、はなむけする」という意)が開催された。「今年はスピーチは短めに」という要請や、妻から「皮肉を言うのはヤメなさいよ」とお達しがあったので、昨年よりは簡素でありふれたものになった。要旨は以下の通り(多少加筆修正してあります)。
 皆さんが一年生の時に受講された行動科学概論の授業の中で、私は、クリティカルな物のとらえ方の大切さを説きました。しかし、卒論への取り組みを見ていると、人間、ある時には、「思いこみ」も大切ではないかと最近思いつつあります。
 例えば卒論のテーマ選びの段階で、このテーマを選ぶべきかどうかをクリティカルに考えすぎると、「これで行こう!」という考えのほかに、「これはやっぱりダメだ」というマイナスの考えが何倍も浮かんできて、いつまでたっても実行に移せません。
 もちろん、選択にはある程度の見通しが必要ですし、また、あまりにも思いこみが強すぎると、これは世界的な発見だといったトンデモ世界に陥ることになります。
 要するに、ある時期には「これは素晴らしい」と思いこみ、時たま、クリティカルな視点からそれを見直す、というのが卒論はもとより、これから社会で活躍していく上での秘訣になるのではないかと思っています。
 上記のスピーチについてもう少し補足しておくと、何かを決断する時に「クリティカルな視点」が常に迷いの原因になるとは限らない。この日記でもたびたび強調しているように、研究テーマというのは、必ず何かの要請(ニーズ)に基づいて生まれてくるものだ。その要請を明確にすれば、必然的にやるべきことが方向づけられ、より建設的・生産的な「クリティカルな視点」が生まれてくるはずである。

 例えば、自分がマラソンの選手になろうか、サッカーの選手になろうかと迷った時に、それぞれのプラス面、マイナス面をあれやこれやと考えていたのではいつまでたっても練習に取り組めない。両方の素質があるという見通しがあるならば、このさい、そういうレベルでの思考は打ち切るべきであり、最終的にはおみくじで決めても構わないと思う。クリティカルな思考は、むしろ、その後の、手段の選択と検証の過程で、より正確で生産的な役割を果たすことになるはずだ。

 もう1つ、上記の「思いこみ」というのは、認知の歪みではなく、むしろ、自分で自分を誉めるような行動のことを言う。「やっぱりこっちを選んで良かった」、「これを選んだおかげでこういう新しいことが分かった」、「あの人も誉めてくれた」というようなポジティブな結果を自分で付加できる人と、「これを選ぶべきでなかった」「あっちを選んでいたら今頃は...」、「あの人からも批判された」などとネガティブな結果を付加できる人を比べれば、たぶん前者のほうが生産的に活動できるだろう。

 しょせん、職業の選択には絶対的な適性などないし、結婚相手の選択にも必然性はない。しかし、あえて「これは天職だ」とか「この人は私の人生のジグゾーパズルの最後の一片」と思い込んだほうがうまくやっていかれる可能性が高いのではないかと思う。