じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[写真] 成田〜福岡便(1/6搭乗)の機上からの景色の続き。今回は、濃尾平野上空。木曽川、長良川、揖斐川の蛇行の様子がよく分かる。


2月17日(月)

【ちょっと思ったこと】

古い国ほど平和を愛する?

 イラク攻撃に反対を唱えるフランス、ドイツに対して、米国の高官が「フランスやドイツは古い国だ」と言ったところ、それを逆手にとったフランスが、「フランスは古い国だ。だからこそ...」と国連安保理事会で平和的解決の大切さを説いたという。このフランス首相の演説はなかなか見事なものだった。また、それに感銘したのか、中国の外相も「中国は古い国だ。だからこそ」と平和的解決を訴えた。一方、これに対抗する英国も「英国は古い国だ。○○○○年にフランスによって初めて発見された...」などとジョークを飛ばしたとか。ジョークで済むうちはよいが、戦争に関することとなると事は重大である。

 確かに考えてみれば、フランスやドイツ、さらには中国や日本、メソポタミア文明の歴史に比べると、米国の歴史など吹けば飛ぶような浅さである。しかも、先住民族が平和に暮らす土地に白人たちが押しかけてきて、何やらかんやら抗争を繰り返しながら先住民族の土地を奪い、アフリカから奴隷を連れてきて作ったのが今の米国である。世界で唯一、大量破壊兵器を戦争で使用し広島や長崎で多くの命を奪ったのも米国である。そんな大きな顔をするな、もっと歴史ある国々の意見を聞けと言われても致し方ないのではないかと思う。

 そもそも、数千年もの歴史の中で、日本と中国が戦争をしたのは、元寇と、日清戦争〜第二次大戦の時の数回程度ではなかったか。東アジアというのはもともと戦争多発地帯ではなかった。平和を愛する民族が仲良く暮らせる地域であったはずである。

 いっそのこと、国連の投票権は1国1票とせず、その国の建国以来の年数を(じぶんから仕掛けた)戦争の回数で割った値で決めればよいのではないかと思ってみたりする。この値がいちばん大きい国、つまり世界中でいちばん平和的な国はいったいどこになるんだろうか。

2/19追記]
上記の書き込みで引用した各国高官の発言は、TV番組を視た時の記憶に基づくものであった。 野田俊作先生の日記(2/18)から、それぞれの発言の正確な内容が2/16付のアサヒコムサイトに引用されていることが分かった。それによれば
  • フランス:ドビルパン外相は安保理での意見表明で、長い歴史の革命や戦火をくぐった自国を「戦争と占領と蛮行を体験した古い国」と断り、「国連というこの殿堂において、我々は理想と良心の守護者でありたい。我々の責任と名誉にかけて、平和的な武装解除を優先すべきだ」
  • アメリカ:パウエル長官は、机の原稿には目も落とさず、「地球の歴史上では比較的新興の国ではあるが、最も古い民主主義国の代表だ」と切り返した。
  • イギリス:ストロー外相が「私は、(北フランスのノルマン人がイングランドを征服した)1066年にフランス人(ノルマンディー公)によって設立された古い国の代表」と切り出した。
  • 中国:唐家セン外相は「中国は古代文明である。我々の祖先は平和こそが最善の選択肢と考えてきた」と和平論をぶった。





イラクの脅威を強調する人

 小泉首相は17日、イラクが正しいんだという誤ったメッセージを送らないように、注意しなければならない」と述べたという。ヨーロッパに続いて、全米約150の都市でも数十万人規模の反戦デモが行われたというが、武力攻撃に反対する平和運動と、イラク支持は全く別物であることなど、多くの国民はとっくに分かっている。日本国内では今のところ大規模は運動は起こっていないが、政府がますます米国追従の姿勢を続けるならば、この種の世論対策は逆に反発をもたらし、成り行き次第では、反小泉勢力を勢いづかせたり、石原新党のきっかけをつくることにもなりかねない。あくまで、東アジアの平和、とりわけ、北朝鮮の脅威に対して主体的な取り組みを強めていくことのほうが先決であると思う。

 米国や日本の政府高官は「イラクが大量破壊兵器を使用することになったら大変だ」と脅威を強調し査察の継続に疑問を投げかけているというが、これもロジックとしてはおかしい。仮にイラクがどこかに大量破壊兵器を隠していたとしても、査察が続いている限りは、それを持ち出して使用するなどということはできないはずだ。まして、そういう兵器がニューヨークや東京のど真ん中に持ち込まれるなどという発想はてんでおかしい。

 9.11の同時多発テロは、映像だけを見ると、あたかもニューヨークの中心街で核爆弾が炸裂したような印象を与える。しかし実は、あそこでは大量破壊兵器は何一つ使用されていない。アメリカで作られた飛行機がセキュリティの不備により乗っ取られ、かつ、高層ビルの崩壊が多数の犠牲者を生み出したのである。大量破壊兵器使用の恐ろしさを世界にアピールするのであれば、ニューヨークではなく、ヒロシマやナガサキの惨劇を真っ先に取り上げるべきだ。

 これから先、最も警戒しなければならないのは、イラク国内にあるとされる大量破壊兵器が飛んでくることではない。アメリカ国内にそれこそ大量に貯蔵されている大量破壊兵器が、テロリストたちによって使用されることだろう。テロリストたちが軍施設の外部から侵入することは不可能だろうが、軍の要人がテロリストの思想に共鳴するならいつでも起こりうることだ。さらに恐ろしいのは、大統領自身が、目的のためには手段を選ばないという姿勢で世界各地に戦争をしかけることである。

【思ったこと】
_30217(月)[心理]日本健康支援学会(3)もう一度行きたくなる病院

 昨日の続き。1日目午後15時〜17時30分に、平野(小原)裕子氏(九州大)の司会のもとに、「QOLと健康支援〜QOLの測定尺度」というタイトルのシンポジウムが行われた。その内容は
 
  • 堂園晴彦氏(堂園メディカルハウス):私の考えるQOL
  • 萩原明人氏(九州大学):働く人々のQOL
  • 福盛英明氏(九州大学):学生のQOL
という3者の話題提供が中心であった。今回はそのうち堂園氏のご発表についての感想を述べたい。

 堂園氏は、終末医療施設「堂園メディカルハウス」の設立者として知られている。このメディカルハウスは、まず建物の空間作りから工夫がこらされており、例えば
  • もう一度行きたくなる病院
  • 霊安室を一番天に近い最上階の一等場所に作る
  • 遺体は、顔を白い布で覆わず、正面玄関から堂々と見送る
  • 個室を重視するが、同時に患者が孤独にならぬよう病院内に「雑踏」を作る
といった工夫がこらされている。

 堂園氏は、若いときには寺山修司の天井桟敷に属しており、この時の経験から「患者観客論」というユニークな視点を展開しておられる。ふつう病院では患者が主人公であるとみなされるが、ここでは患者という一人の観客のためにすべての人が役者として芝居をする。患者観客を感動させる役者とは、プロ意識のある「行為者」であるとのことだ。

 講演の終わりのほうで堂園氏は、自由について

●自由とは、自己選択のできることであり、人生とは自己責任の積み重ねである。自己選択には自己責任がある。

という考えを述べられたが、これに関しては、以前、オーストラリアでも同じような考えを聞いたことがあった。例えば、車椅子を使わずに歩くことは患者の自由であり、その選択は患者に委ねられている。但し、怪我が起こった場合にも自己責任が伴うという考えだ。自己選択における自己責任というのは、けっきょくはオペラント行動における自己責任の問題であろうと思う。

 堂園氏によれば、終末医療におけるQOLとは「解脱」であるという。すべての物事に執着しなくなった時に安らかに死を迎えられるということなのだろうが、私のような者には果たしてその境地に達することができるだろうか。また、「インフォームドコンセント」は日本ではむしろ「あうんの呼吸」として扱われるべきであり、21世紀の言葉は「よりそう」であるとも言っておられた。

 堂園メディカルハウスのようなところで安らかな死を迎えられる人は幸せであろうと思うが、実際にはどのくらいの入院費用がかかるのだろうか。それと現実には順番待ちでなかなか入れないケースもあるらしい。講演の最初でも言っておられたが、ホームレスばかりでなく、最近では、厚労省の長期入院抑制策などの影響で「ホスピタルレス」の患者さんも増えているとか。病院施設だけに頼る必要もないと思うが、とにかく地域レベルで、「病」の院ではなく、「hospitalis=もてなしのよい」という語源に近い「もてなし」の施設を整備することが求められていると思う。次回に続く。

2/18追記] 堂園メディカルハウスのWebサイトがこちらにあった。堂園晴彦氏のメッセージも掲載されている。