じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[写真] タスマニア旅行のあと、成田〜福岡便を利用した。どういうコースをたどるのかと思っていたところ、まず成田上空で旋回して東京湾へ。羽田から相模川河口付近へと向かった。写真は、右側窓から眺めた首都上空。羽田発でも似たような景色を眺めることはできるが、まだ上昇中のため、電子機器の使用が禁止されている。今回の成田発はすでに高度を上げているため、初めて撮影することができた。


1月30日(木)

【思ったこと】
_30130(木)[心理]けっきょく「癒し」とは何なのか?

 今年度の卒論の提出締切まであと一日となった。そんななか、「癒し」について論じた研究があったのだが、どう指導すべきか最後まで迷ってしまった。

 もともと「癒す」とは、「病気・苦痛などをなおす」、「肉体的・精神的苦痛を解消させる」などと定義されている。また、「ヒーリング」の原語healは、「一般的には外傷を治す」という意味であり、「病気 けがなどを治してもとの健康な状態に戻す」(研究社新英和中辞典)という意味のcureとは違うニュアンスで使われている。

 しかし、最近では、外傷や明らかな精神的苦痛を治すという意味よりはむしろ、単なるストレス解消の意味で用いられることが多い。例えば、「心身が癒される」という時には「失われつつあった心身の安定が取り戻される」という意味であって、具体的な怪我を治すわけではない。この日記でも時たま取り上げている「園芸療法」のほか、ペットやアロマテラピーなども、心身の安定を求めるという意味で使われている。

 私個人が、この言葉がしっくり来ないと思うのには2つほど理由がある。

 1つは、この言葉を行動のレベルで定義することが難しいためだ。

 もう1つは、私自身がもともとそういうものを求めない、というか、「癒された」ということを実感したことが無かったことによる。タイプA人間と言えばそれまでだが、私のようなせっかちな人間は、のんびりと音楽を聴いて過ごすなどということができない。そんな暇があったら、翌日の仕事の準備をするだろう。要するに「癒されている時間」が与えられたとしても仕事の総量が減るわけではない。休めば休むだけ締切に追われる。少しでも仕事を片付けておいたほうがよっぽど楽になるというわけだ。

 木曜のゼミ(卒論提出間際だったので今回は3回生のみ出席)での討論をふまえた上で、現時点で私が思っているのは次のようなものである。
  • 「癒し」というのは、むしろ能動的な行動が起こらない状態である。それゆえ、「能動的な行動に結果として好子が伴い強化される」という「生きがい」についての作業仮説とは明らかに異なる。
  • 「癒し」というのは、苦痛の「場」と、それから解放されている「場」との両方があって初めて定義される。それゆえ、当面の苦痛が無い人にとっては「癒し」は意味をなさない。
  • 現代社会における「癒し」は、忙しさや義務からの解放を必要条件とする。それは「〜しないと好子が消失する」という阻止の随伴性からの解放を意味している。
 私の場合、わざわざ年次休暇をとってどこかに出かけても、本質的に癒されることはない。上にも述べたように、「休む」ということは、「休んだ分に比例して、休暇後の仕事を忙しくする」こととセットになっているからだ。

 数年前、足の甲の腱を切って入院した時、あるいは、インフルエンザにかかって寝込んだ時などは、むしろホッとすることがあった。もちろんその場合でも、快復後に仕事がたまってしまうことには変わりないが、少なくとも「休んでも休まなくてもどっちでもいい」という選択肢は与えられていない。選択の余地が無ければ義務感も消え、結果的にのんびりした気分になれるというのは不思議なものである。

 おそらく私にとって、本質的な「癒し」というのは、これ以上頑張っても無駄だという限界を知った時にやってくるのではないかと思う。...と、好き勝手なことを書いてみたが、先日、タスマニアの原生林を歩いていた時には、もうちょっと違う「癒し」の場が体感できたような気がする。このことについては、別の機会に書いてみたい。