じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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サーバーの容量事情により、写真ファイルはこちらに移しました。 キャンプ地に顔を出したワラビー。というか、ワラビーの生活地にテントを張っているだけかもしれない。写真には写っていないが、袋の中からは時々赤ちゃんが顔を出していた。


1月16日(木)

【思ったこと】
_30116(木)[心理]行動随伴性ダイアグラム再考(6)調査研究の情報的価値と一般性

 連載6回目。とりあえずの最終回として、行動随伴性を重視した調査研究にどういう情報的価値があるのかについてまとめてみたいと思う。

 連載1回目(3/11)で述べたように、卒論研究の到達目標は
  1. その対象を扱う意義づけがしっかりしていること
  2. 先行研究が精査されていること
  3. 分析の方法に確実性があること
  4. 考察の内容が事実に基づいたものであること(思いこみや論理の飛躍が無いこと)。
  5. 全体として、何らかの情報的価値(発見的価値、通説への反証、複雑現象の分類整理、予測、改善への有用性、etc.....)を提供していること
といった要件を満たすことである。行動随伴性を重視した研究を行う場合でもこれは全く変わらない。

 行動随伴性を重視した応用研究は、通常は、実験的手続により検証される。まずターゲットとなる行動(普通は、増やしたい行動、もしくは減らしたい問題行動)が明記される。そして、それを強化あるいは弱化するために用いられる好子または嫌子、強化基準、先行刺激、効果測定の方法などについてのプランが立てられ実行に移される。それによって、これまでの方法では困難とされてきた現象が改善されたり、他者が利用できるようなユニークなスキルが含まれていたり、理論的に予測されるような新たな変化が認められれば、その研究は情報的価値があるものとして評価される。また、上記3.あるいは4.の「分析方法の確実性」や「事実に基づいた考察」は、ABAB反転実験計画などを着実に実行することで満たされるだろう。

 しかし、高齢者の生きがい等をテーマにするような場合、特定の行動をターゲットにするだけでは、生活全体の質の向上をはかれない場合がある。問題行動を減らし、身辺自立を可能にすることが基本であるとは言っても、それだけでは生きがいには繋がらない。ダイバージョナルセラピーの話題でも取り上げたように、「目的をもった能動的な遊び」のようなものも生活に取り入れていく必要があるからだ。ダイバージョナルセラピーでは、「assessment(事前調査、審査、生活史や欲求についての調査)」が重視されるというが[2002年12月12日の日記参照]、その調査内容:
  • 何ができるのかの見定め
  • かつては何をしていたのか
  • 今、何を楽しんでいるのか
  • 現在の環境
  • activityの分析
  • 動作遂行上の問題点(例えば本を読みたいのだが、手が震えているとか、視力が衰えているといった問題点の把握)
などは、正確さを高めようとするならば必然的に行動随伴性に基づく調査にならざるをえない側面をもっている。なぜなら、「何ができるのか」とは「どういうオペラントが自発可能か」という問題であるし、「今、何を楽しんでいるのか」を知るためには最低限「どういうオペラントが好子出現により強化されているのか」を知る必要があるからだ。

 同じような問題は、たぶん、不登校についてもあてはまるだろう。不登校が「学校に行く」行動の強化・弱化だけで単純に扱えないことは、この日記でも何度か述べた通りである。やはり対象者の全生活面において随伴性に基づく分析を進める必要がある。




 随伴性に基づく調査研究の情報的価値は、一般の事例研究における情報的価値と同じように扱うことができる。その分析内容や事例選択の方法は、研究のニーズ(要請)によって変わってくるだろう。例えば
  • 反例や意外性を示すことを目的とするならば、一事例を示せば十分。例えば「猫は笑わない」という常識を覆すには、ゲラゲラ笑っている猫を1匹見つけてくればそれで済むことだ。
  • いろいろなケースにあてはまるような共通の法則性を見つけようとするならば、なるべく多くの典型事例を集める必要がある。但し、何をもって「典型」であると判断するのかは、一定の客観的基準が必要である。
  • ある集団内での多様性を強調することが目的であるならば、「典型」ではなく、むしろ「希少」ことによれば「異常」な事例をたくさん集めたほうが情報的価値が増すことになるだろう。

 よく誤解されるが、「一般性」と「客観性」とは根本的に異なる。一個人の中で見出された法則性の中には、その個人だけでしか当てはまらないものがあるに違いない。それらは一般性はないが、客観的な記述は可能であり、その個人の行動の予測や制御には十分に役立つツールになりうる。例えば、ある国の独裁者が異常な人格であって、次々に妙な外交政策を打ち出してきたとする。それらを外圧によって変えさせるためには、その独裁者の中で成り立つ法則性を見出せばそれでよいのであって、「万人共通の法則」を探し出してきてあてはめる必要は全く無い。

 それから、そもそも、人間世界において、どの時代にもどの人間にも成り立つような法則なるものがどれだけ有用であるのかは分からない。自然科学に端を発した実験心理学は、極端な一般性ばかりを追い求めるきらいがあった。もちろん基礎的な研究は必要であろうが、「ある時代、ある文化の中でしか成り立たない法則」も「ある文脈、ある場でしか成り立たない法則」も「ある個人の中でしか成り立たない」も、一個人の行動を考える上では同程度の重みがある。けっきょくのところ、一般性は相対的なものであり、その情報的価値は、(例えば100年後までを見越した)長い目でとらえることを前提とした上での、利用可能性(広義の実用的価値)と無関係ではありえないと考えている。