じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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サーバーの容量事情により、写真ファイルはこちらに移しました。 昨日に続いてタスマニア南部の動物園。ハリモグラを見るのは今回が初めてだった。形も面白いが、ゼンマイ仕掛けのおもちゃのように、せわしく動き回る様子が愛らしかった。背中にも触ることができた。


1月12日(日)

【ちょっと思ったこと】

Windows-XPはpointに弱い?

 小学館のランダムハウス英語辞典をハードディスクに移して使っているのだが、MeをXPにアップグレードしてから、見出し語が文字化けして困っていた。昨年末にXP対応版の優待販売の案内が来たので、そろそろ申し込もうかと思っていたところ、息子が面白い現象を発見した。現バージョン(ver1.1)で「point」を検索しようとすると「問題が発生したため、Srd.exeを終了します。ご不便をおかけして申し訳ありません」というエラーが出て強制終了してしまうのである。これは何度やっても同じであり、別のパソコンでも同様であった。素人のため原因を推し量ることは到底できないが、特定語を入れるとエラーが出るというのはまことに興味深い、XP対応版ではこんなことは起こらないでしょうねえ。

1/15追記]
堀先生@香川大より、以下のような情報をいただきました。さっそく、当該サイトにアクセスし、「point」問題は解決しました。なお、XPにおける表示の文字化けは未解決のままです。これは、XP対応の新バージョンを購入するしかないのでしょう。以下、一部転載。どうもありがとうございました。
point の話は有名なバグでわりとすぐに対応版になっています。そのほか記述 でおかしいところが一括変換されていました。
xp ではないけどXP版にバージョンアップしました。こちらも大丈夫です。
1.1のバグ修正版は次のところにあります。
http://ebook.shogakukan.co.jp/support/download/srdw11a/srdw11a.html


【思ったこと】
_30112(日)[心理]行動随伴性ダイアグラム再考(2)随伴性の記述はニーズに依存し階層的になる

 昨日の日記の続き。行動分析が目ざす人間理解というのは、宗教家や一部の哲学者が目ざしているような「絶対的」真理の探究ではない。佐藤(1976、『行動理論への招待』 大修館書店)はこの点について“科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」”と述べておられる。こちらの論文でも述べたように、
行動分析学的にみれば、科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請(ニーズ)に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくというのが、基本的な視点となっている
のである。

 「行動随伴性に基づく人間理解」についても同じことが言えるだろう。「行動随伴性で人間が理解できるか否か」ということを二者択一にとらえるのはナンセンスで不毛な議論である。何らかの予測や環境改善に役立つ限りは随伴性概念が否定されることは決してない。もし、随伴性に基づかない、さらに優れたツールが見つかればそれに乗り換えれば済むことである。現時点では、随伴性は人間理解の必要条件を構成すると私は考えている。例えば、強化の原理を否定したかのように誤解されがちの「内発的動機づけ」の「発見」[Deci (1975). Intrinsic motivation. New York: Plenum Press)」なども、じつは、付加的強化と行動内在的強化の混在として捉え直すことができる。「洞察」の証拠として挙げられたチンパンジーの実験なども、じつは、過去の類似行動の強化や刺激等価性概念により捉え直すことができる。いろんな形の人間理解があることは大いに結構だが、随伴性のしがらみから脱することは、無重量状態の宇宙に脱出するぐらいに困難であろうと思う。




 さて、こうした科学観に立つならば、行動随伴性の記述も当然、要請(ニーズ)に応じて異なる内容となるし、一定の階層構造をなすものと考えてしかるべきであろう。

 1/11の日記で「テーマパークに行く→面白い」というのは随伴性の記述としては間違っていると述べた。しかし、実際に求められる分析は、要請に依存しており、これがお手本というようなものは存在しない。

 例えば、テーマパークの経営者の立場から見るならば、お客がたくさん来ること、しかもできればリピーターを満足させるということが絶対的な要請となる。この場合、入場者のどのような行動が何によって強化されているのか、飽きさせることは無いのかを、それぞれの遊具や景観に分けて精密に分析する必要がある。

 クラスの懇親会や合同ハイキングに誘うためにテーマパークを利用する場合には、別の視点が必要である。個人個人が絶叫マシンで別々にキャーキャー楽しんだだけでは、懇親の目的は達成されない。会話ができる場をどう確保するのかというのが幹事の腕の見せ所となる。

 いっぽう、「毎日1時間以上勉強したら1ポイント、30ポイントたまったらテーマパークに行く」というように、低頻度の別の行動(ここでは子供の勉強)を強化するためのご褒美としてテーマパークを利用する場合はどうだろうか。この場合、とりあえず必要なのは、テーマパークに行くことが十分に強化的であるという知識だけだ。その子供が実際にテーマパークに行ってどういう楽しみ方をするのかは、さしあたりどうでもよいことである。




 ところで、以上ではもっぱら「テーマパークに行く」という行動が、テーマパークに実際に行った時に伴う具体的な事象等によって直接強化されているような書き方をしてきたが、これも妥当ではない。『行動分析学入門』(杉山ほか、産業図書。1998年)で「60秒ルール」として紹介されているように、
行動をしてから60秒以上たってから好子が与えられる時はルールによる制御を考えなさい
なのである。「テーマパークに行く」という選択が行われるのは、それが直接的に強化されているからではない。「テーマパークに行って、そこでいろいろなオペラントが自発されれば好子が出現する」というルールが保持されているのである。

 このことに限らず、いっぱんに、将来の進路を決めるとか、どこかに行くというような行動は、じつは、具体的な結果ではなく、別の行動が強化される機会に身を投じるという行動として位置づけるべきである。

すなわち、

【Aレベル:日常生活一般】テーマパークに行く→テーマパークという行動機会
【Bレベル:テーマパーク内】いろいろな遊具に接する→いろいろな好子(バーチャルな刺激、加速度、非日常空間...)の出現

というように少なくとも2段階のレベルの随伴性があり、このうちのAレベルは通常はルールによる制御であって、必ずしも直接的かつひんぱんに強化されているわけではない点に留意する必要がある。

 1/11で挙げた「授業に出席する→つまらない」も同様な階層性をもつはずだ。

【Aレベル:学生生活一般】授業に出る→授業という行動機会
【Bレベル:教室内】授業に参加する(話を聞く、討論する、小テストを解く、質問する)→いろいろな好子(疑問解消、行動リパートリー拡大、教員による称賛、クラスメートからの注目等)

 上記2例で重要なことは、単にBレベルで好子出現を保証しても、それだけではAレベルの選択には結びつかないという点である。ルール制御を主体とするAレベルの選択が出現するためには、ルールを保持すること自体の強化、言語的に付加される諸々の好子や確立操作(いわゆる意義づけ、目標設定、競合する選択肢との比較など)など多種多様な要因に影響されている。

 Aレベルでの諸々の要因には、おそらく、従来「認知心理学的」アプローチで語られていた内容がたくさん含まれているのだろう。「認知的」概念をそっくり残すのか、それとも行動分析的な概念で再解釈したほうがよいのか、これも、結局は、予測力、改善可能性、確実性といった有用性の物差しで判断されることになると私は思う。次回以降に続く。