じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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成田発メルボルン行きの機上から眺めたオーストラリアの乾燥地帯。おそらく、バーク(ニューサウスウェールズ州)近郊ではないかと思われる。まるで火星の大地。


1月8日(水)

【思ったこと】
_30108(水)[心理]中島義道氏の『不幸論』(1)

 12/28〜1/5のタスマニア旅行の際には、中島義道氏の『不幸論』(PHP選書)を持っていった。帰りの便がエンジン交換で遅延した時に、「私の乗った飛行機はこれまですべて無事に着陸したのだが、今度こそ墜ちるだろうと思う。」(p.173)などというくだりを読むと、ああそうか、私がこれから乗る飛行機もタスマニアの冷たい海に墜落するかもしれんなあという不幸な気分になってきた。

 1/6の夕刻に車を運転していたら、NHKラジオで、大人と子供はどこが違うかというような話題が取り上げられていた。ゲストのしゃべることが『不幸論』にそっくりだなあと思ってしばらく聴いていたら、なっなんと、出演者は中島氏ご本人だった。新年早々に中島氏のお声を聴くとは、.....『不幸論』に縁がある年になるのかもしれない。

 さて、この本の内容であるが、カバーには、
.....世に蔓延する「幸福でありたい症候群」。だがその幸福感は、他人の不幸や「死」の存在を「知らないこと」「見ないこと」で支えられている。......「真実」を自覚し自分固有の不幸と向きあうほうが、「よく生きる」ことになるのではないか。古今東西溢れる「幸福論」とその信者たちの自己欺瞞を鋭く指摘した上で、そう提案する。
という案内が記されている(部分引用)。中島氏の御著書を拝読するのは今回が初めてであるが、「古今東西溢れる「幸福論」とその信者たちの自己欺瞞」に対する中島氏の批判は、なかなか的を射ているように思った。

 もっとも、私自身の「能動主義」の視点からとらえるならば、そもそも幸福とか不幸というのは、もっと離散的で個別的に生じる現象ではないかと思う。ある期間、例えば大学生活の4年間の中には、幸福に感じる出来事もあれば、不幸に感じる出来事もいっぱいある。料理の中に、おいしい物とまずい物があるのと同様であって、二者択一的に「私は幸福か、不幸か」などと考えるのはナンセンス。けっきょくのところ、「幸福vs不幸」概念などというのは、景気指標や豊かさ指標のような総合指標として(←但し、あくまで個体内での指標)のようなものであって、絶対的あるいは永続的な概念としてとらえること自体が間違っているのではないかと思う。

 中島氏は、不幸論を展開するにあたって、幸福の4条件として次のようなものを挙げておられる。
  1. 自分の特定の欲望がかなえられていること。
  2. その欲望が自分の一般的信念にかなっていること。
  3. その欲望が世間から承認されていること。
  4. その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れない(傷つけない、苦しめない)こと。
これらは、中島氏独自の見解ではなく、おそらく、古今東西溢れる「幸福論」における最大公約数的な前提をまとめ上げたものであろう。確かに、この前提を受け入れるならば巷の幸福論はきわめて危ういものになるが、実際はどんなもんだろうか。もうひとつ掘り下げて、「欲望とは何か」、「欲望はどのように生じるのか」、「一般的信念とは何か」といったレベルから捉え直してみる必要があるのではないかと考えている。

 そして一番の問題は、能動(=オペラント)の概念が欠落していることである。能動主義の視点に立つならば、
  1. 欲望は確立操作と強化子(好子)の問題
  2. 生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することである
  3. 欲望をかなえること(=好子を手にすること)自体ではなく、能動が重要
といった別の見方が出てくるはずだ。次回以降に続く。