じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
紅葉に代わって、この時期の大学構内を飾り立てているのが、センダン(写真左)とナンキンハゼ(写真右)の実である。以前、「きんさん、ぎんさん」と呼んだことがあった。 |
【ちょっと思ったこと】
年賀状は面倒だなあ 今年もまた年賀状書きの季節がやってきた。私は個人的には年賀状廃止論者であり、特にEメイルの普及により、必要に応じていつでも連絡がとれるようになった今、「謹賀新年 旧年中は大変お世話になりました(←じつは一度も顔を合わせておらず、とうぜんお世話にもなっていない)。本年もよろしくお願いします(←じつは、本年も一度も会う予定がなかったりして)などと書くのは全くのムダだと思っている。 と言っても、なかには、ネットを全く使わない高齢のお方もおられる。そういう方々に限っては年賀状を差し出さざるを得ない。 ネット上でのやり取りはEメイルや私設掲示板でいくらでもできる。そういう相手とは、新年であるという理由で改まって挨拶を交わす必要は無いと思う。いっぽう、あまり交流したくないが、形だけ整えておこうという相手には、電子年賀状のサービスがある。直接メイルで送れば済むところを、わざわざ第三者を介して送り届けなくても良さそうなものだが、Eメイルのような直接接触を敢えて避けたいという必要がある時には便利だと思う。 ふたご座流星群 四大流星群の1つとして知られる「ふたご座流星群」が14日の21時頃にピークを迎えた。夕食後の散歩の際には、ふたご座とはまったく離れた、はくちょう座の辺りで右から左方向に長い光跡を確認できた。翌15日朝は5時頃に起きて、いつもと異なる農学部農場付近を散歩してみたが、出がけに北西の空で1個を目撃しただけに終わった。一晩で観測できる流星数は数ある流星群の中でも最多といわれるふたご座流星群ではあるが、何と言っても寒いのがこたえる。 |
【思ったこと】 _21214(土)[教育]「学ぶ意欲」再考(7)あまりにも大ざっぱな「学習意欲」調査 昨日に続いて、文部科学省が今年初めに全国の小学5年から中学3年を対象に実施した5教科学力調査「平成13年度教育課程実施状況調査(小学校・中学校)」について。今回は「学習意欲」に関する結果について感想を述べることにしたい。 なおこの日記は12/14の朝日新聞記事に基づいて書き始めたが、オリジナルのデータが国立教育政策研究所のホームページに掲載されており、その一部を併せて参照した。その中の−児童生徒質問紙共通−資料によれば、学習意欲等に関する調査では以下のような18通りの質問が行われた。回答は、「そう思う」、「どちらかと言えばそう思う」、「どちらかといえばそう思わない」、「そう思わない」、「分からない」の5択であったようだ(無回答も集計)。
資料によれば、「勉強を大切だと思う」に対して「そう思う」あるいは「どちらかと言えばそう思う」と答えた小中学生は、82%〜88%になっていた。いっぽう、「勉強が好き」に対して「そう思う」あるいは「どちらかと言えばそう思う」と答えた子供は、39%(小5)、34%(小6)、19%(中1)、16%(中2)、18%(中3)というように、特に中学生になると激減していた。 「大切だ」と「好きだ」の乖離に対しては「全体的な学習離れを示している」というコメントも寄せられていたが、実際はどんなもんだろうか。もちろん、勉強をすることが生きがいになるかどうかを問題にするのであれば、「勉強が好き」であること、要するに、勉強行動に対して行動内在的な結果が伴うような状況を作ることがぜひとも必要になってくるだろう。しかし、現実の世の中は、好きなことばかりしていてやっていけるほど甘くはない。嫌いでたまらなくても、大切だと思い、やるべきことをこなす習慣が身に付いているならそれでよいのではないか。 ここでもう一度、オリジナルの質問項目を眺めてみたい。まず「勉強は大切だ」というのは、「行動・結果」記述ではなく、確立操作と言える。それ以外を行動随伴性に基づいて分類すると、
ところで私のゼミでは、しばしば、行動随伴性に基づく分析を強調している。そのことによって、複雑な事象を簡潔に分類できるのはもちろんであるが、最大のメリットは、直感や個人体験だけに頼っていたのでは気付かないような別の随伴性の可能性を指摘できるという点にある。 例えば、結果の質という点から勉強する理由を考えてみると、今回の質問項目では、「よい成績をとれる」「受験に役立つよう」「自分の好きな仕事につけるよう」「分からないことでも自分の力で答を見つけられるよう」「ふだんの生活や社会に出て役立つよう」「お父さんやお母さんにほめられるよう」「先生にほめられるよう」というように、すべて、利己的な理由ばかりを尋ねていることが分かる。行動随伴性の視点から、結果の質に注目すれば、「社会の役に立つために、勉強したい」(←「社会に出て役立つよう」とはまるっきり違う)、「病気の人を救うために、勉強したい」、「お父さんやお母さんの恩に報いるために、勉強したい」というような、社会全体を利するような結果というものもありうるはずだということに気づく。 また、随伴性の種類に注意を払うと、「勉強しなければ〜になるから、勉強する」という阻止の随伴性に関わる質問が全く含まれていないことに気づく。例えば、資料によれば、「受験に役立つよう,勉強したい」に対しては、小5で69%、中学生では80%以上が肯定的に回答をしているが、本当は、「勉強しなければ受験で不利になるので、そういうネガティブな結果を阻止するために勉強している」んではないかなあ。そういう質問が欠けていたために、児童・生徒たちが、どれだけ自発的・能動的に勉強しているのか、それとも、阻止の随伴性により義務的に勉強しているのかが分からなくなってしまっている。 それにしても、今回の質問はあまりにも大ざっぱすぎる。さまざまな科目があるにも関わらず、抽象的に「勉強は好きか」とか「〜のために勉強する」などと尋ねることにはどれほどの意味があるのだろうか。じっさい、もし自分が中学生だったらどう答えるだろうか。私の場合、数学や理科は好きだったが、英語と社会は嫌いであり義務的に勉強した。国語は、一部の小説と論説と作文は好きだったが、詩歌は大嫌い。5教科以外の技術、美術、音楽、体育は全部大嫌いだった。こういう時は、いったいどう答えたらよいのだろう。 どうせ聞くのなら、勉強のどういう所が好きかどういう所は嫌いか、どういう時に楽しいと感じるか、他のいろいろな行動と比べた時勉強は何番目ぐらいに好きか、というようにもっと具体的に聞き取ったほうが成果が大きかったのではないかと思う。 大ざっぱな点は勉強の理由に関する問いについても言える。例えば、数学を勉強することはたぶん「私の受験に役立つ」が、「私の好きな仕事につくことに役立つ」かどうかは定かではない。 いろいろ書いてみたが、とにかく、学習意欲に関する質問は大ざっぱすぎて、何に役立つのか分からない。何も45万人ものデータを集める必要は無かろう。人数はもっと少なくてよいから、いろいろなグループに分けて多様な質問をすべきではなかろうか。加えて、質問紙ばかりでなく、面接による聞き取りや、行動観察も加えるべきである。平均値を折れ線グラフや円グラフで比較する程度では、何一つ生産的な議論には発展しない。 それと、過去との比較はほとんど情報的価値がないと思う。「勉強」の概念そのものが変わっているからだ。思い出話に興じる暇があったら、いま何が問題なのかを詳細に検討することに重点を置くべきだ。 |