じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 岡大構内を流れる座主川の風景。「岡大渓谷」と呼んだら大げさだろうか。





11月28日(木)

【ちょっと思ったこと】

今日の金星・火星

 11/29早朝は、火星を頂点として金星とスピカによって構成される三角形がさらに平べったくなった。また、火星と金星を結ぶ辺の長さは、火星とスピカを結ぶ辺の1/2〜1/3程度に縮小した。12/1にはいよいよ月が近づく。雲が出ないとよいのだが.....。

【思ったこと】
_21128(水)[教育]「学ぶ意欲」再考(4)大学生・大学院生の学ぶ意欲

 今回は、朝日新聞連載記事第1回目(11/24)の佐藤学・東大教授のコメントに関連して
「勉強」から「学び」へと転換することが必要だ。ひたすら教師の説明を聞き、黒板と教科書を読んで理解する座学の「勉強」から、具体的な道具や素材や人と出会う活動的な「学び」へ。自学自習の「勉強」ではなく、自分のアイデアを惜しみなく提供し、仲間のアイデアから謙虚に学び合う「学び」へ-----。」という部分はその通りだと思う。但しそのためには、学校教育の内容を全面的に変え、かつ、入試の方法も改めなければ実現はできない。大学教育なら、いくらか可能だと思うのだが、私のゼミでは、このことで苦労している最中である。
と述べたことについて、大学教育との関係をもう少し詳しく考えてみたいと思う。

 まず、一般論として、大学の授業は、主体的・能動的に学ぶ者を対象に行われるものであり、1コマ90分に対してその2倍〜3倍の予習・復習が行われることを前提に進められるべきであると思う。

 授業の質を高める目的で授業評価アンケートを行う大学が増えてきたが、これは、ベーカリーレストランのアンケートとは根本的に違う。ベーカリーレストランの場合は、お客はただ座っていればよく、出された料理がおいしかったかどうか、サービスが適切であったかどうかを評価する。一方、大学の授業の場合は、ただフラッと教室に入ってきて90分間聴講すれば話が分かるというものではない。事前に予習し、授業後には指示された課題をこなすとか、(私の授業の場合であれば)ネット上の授業サイトを閲覧しながら復習することが前提となっている。何も努力しないで、この授業は分かりにくいとケチをつけるのは自分勝手というものだ。

 “「勉強」から「学び」”がどの程度可能かということは、学問分野によって異なる。例えば医療系の学部では技法を伝授する授業が大半を占める。もちろん、マニュアル通りの対応だけでは不十分であろうが、医療現場で自分勝手なアイデアばかり出されていたのでは患者は大迷惑だ。

 心理学の場合も、統計解析の技法、それぞれの小分野における基礎的知識の修得が求められているけれども、卒論や修論研究においては、相対的に「学び」が重視されていると思う。

 そういう意味では、「何を研究したらいいですか」、「テーマを与えてください」などというのは、卒論生や修論生が指導教員に対して口にすべき質問ではない。そういうものは自分で探し出し、「このテーマでぜひやらせてください!」とアピールすべきものだ。

 質問に来ない学生よりは、積極的に質問する学生のほうがいいのは当然だ。しかし、自分で何も調べず、省エネ的に「○○について教えてください」というのは困りものだ。例えば、アクションリサーチについて分からなかった時にとりうる手段としては
  1. 教員から直接解説してもらう
  2. アクションリサーチについて分かりやすく書いた本を教員から借りる
  3. 図書館やネットで、アクションリサーチの解説書や関連論文を探しそれを読んだ上で自分なりの理解点をまとめ、必要があれば不明点を教員に質問する
という3つが考えられる。必要な時間・日数は、1.ならせいぜい20分、2.なら3日間程度、3.ならば最低2週間くらいはかかる。省エネ重視なら1.だろうが、本当の「学び」というのは3.のようなことを言うのだと思う。

 数日前に、ゲームソフト大手のエニックスとスクウェアが来年4月に合併するというニュースが伝えられた。そういえば、スーパーファミコン用のファイナルファンタジーIVやドラゴンクエストVが発売されたのは、いまの大学生がちょうど小学生の頃ではなかったかと思う。私自身も息子と一緒に楽しんだことがあるが、ああいうゲームは攻略本無しではなかなか先に進めない。攻略本無しでは、莫大な時間を要するし、ボスと戦ってもなかなか勝てるものではない。そのことが入学後の勉学態度に反映していると考えるのはあまりにも短絡的であるとは思うが(←おそらくこれ以外に、高校や予備校での、攻略本型の進学指導の影響もあるだろう)、どうも最近の傾向を見ていると、「次に何をしてよいか分からない」、「危ない橋は渡りたくない」という学生が多いような気がしてならない。

 少し前に自分のゼミでも話したことがあるが、卒論や修論のテーマなどというのは、最初からこれでヨシ!というようなものはありえないと思う。実際に取り組んでみて見通しが立てばさらに進む、どうしても困難があればテーマを変えることもある。そういう失敗の繰り返しの中で焦点を定めていくべきものだ。私自身の修論研究の場合も、1回生の時に取り組んだ10以上の予備実験の中で、見通しが立ったのは2つか3つぐらいだった。

 卒論の成績評価や修論の合否は、締め切り前に提出された論文の内容に基づいて判定されるものである。その意味では、指導教員が与えてくれたテーマで、指示された通りの方法に基づいて論文を書くのが最も無難と言える。しかし、卒業・修了後に本当に役立つのは、むしろ、テーマ選びの段階での悪戦苦闘であろう。受身的に与えられたテーマで無難に論文をまとめるより、成功率10%で、いろいろなチャレンジの末に何とか論文をまとめ上げることのほうが、遙かに将来に役立つことになると思う。