じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真] 岡大西門東側にあるモミジ。雨で半分ほど葉が落ちて真っ赤な絨毯ができた。





11月25日(月)

【思ったこと】
_21125(月)[教育]「学ぶ意欲」再考(2)意欲とアメとムチ

 昨日取り上げた「子どもの勉強時間」に関する話題は2回完結とするつもりだったが、元ネタとなっている朝日新聞「学ぶ意欲」の連載に興味深い話題が次々と取り上げられているので、タイトルを変更、もう少し継続的に感想を記していきたいと思う。

 ところで、私自身は「意欲」という言葉は、少なくとも教育改善の議論をする場では頻繁に使うべきではないという立場をとっている。そもそも「意欲」というのは、行動が活発に行われている時に、その原因として、からだの内部にわき上がっているエネルギーのような力として仮定されたものである。それゆえ、例えば、A君が算数を一生懸命勉強していれば、

●A君は算数を学ぶ意欲がある

と表現される。いっぽう、算数の勉強をいやがるB君については

●B君は算数を学ぶ意欲が無い。

と表現される。ではB君はどうすればよいか、単に「意欲を高めればよい」というだけでは循環論になってしまうだけだ。何の建設的提案もできない。要するに「意欲」は、現象を分類記述する概念ではあっても説明概念にはなりえないのだ。




 「意欲」とはちょっと異なるが、同じように循環論に陥りやすい概念に「意志力」がある。少し古いがSmith, Sarason, & Sarasonの1978年の心理学教科書(←この教科書はその後も改訂版が出ているが、私個人は、この78年版が最も分かりやすい)は、この点について次のように述べている(242頁)。
The concept of willpower is also somewhat troublesome from a scientific point of view, because the only way we can operationally define willpower is in terms of the behavior it is supposed to cause. For example, how do we know if individuals who want to stop smoking have willpower? If they stop or markedly decrease their smoking, of course! But why do they stop smoking? Because of their willpower. This kind of circular reasoning can deceive us into thinking that we have explained something when in fact we have simply used a behavior to "demonstrate" the presence of an internal state (willpower), which we use in turn to explain the behavior.
「学ぶ意欲」概念についても循環論に関わる同様の問題がある。せいぜい「学ぶ意欲を高めよう」的なスローガンとして用いるのが賢明である。




 では、学ぶという行動を高めるための説明概念にはどういうものがあるか。
  • 【直接的な好子出現の随伴性】学ぶという努力がどう報われるのか、つまり、学ぶという行動に対してポジティブな結果が伴うかどうかということだ。ポジティブな結果には、「未知の現象が分かるようになった」、「覚えた定理、漢字、英語表現などが使えるようになり行動リパートリーが拡大した」といった行動内在的な結果と、周りから褒められたといった付加的な結果がある。
  • 【直接的な好子消失阻止の随伴性】学ぶという努力を怠ると不利な結果が生じる、それを阻止するために必死に頑張るということ。競争的環境のもとでの受験勉強がこれにあたる。
  • 【将来の目標への接近】将来の目標があると、その目標に近づくための準備的行動は、進捗の度合い、累積的成果、目標との方向の一致などを確認することで言語的に強化される。みずから達成状況を確認し、自分自身を褒めるということ。
  • 【確立操作】将来の目標の意義、今学んでいる分野の学問的価値、次に行われる試験の重要性などについての情報が付加されると、結果の重み(=強化力)が増す。例えば、医者になりたいと思っている生徒の両親や兄弟が病気で入院すれば、それだけ「医療の意義」の重みが増す。
こういったことを日常生活場面でどう実現するのかが、学ぶ意欲を高める最善の道であろうと私は思う。




 さて元の話題に戻るが、連載1回目(11/24)の新聞記事には、和田秀樹氏(精神科医)の次のようなコメントがあった。長谷川のほうで要約引用すると
  1. 勉強意欲を向上させるには、子どもの自発性を重視しすぎる「ゆとり教育」路線を改める必要がある。自発的な姿勢を待っても、元々勉強する気のない子はいつまでたってもやる気にならない。
  2. 外からの圧力を強めた方が現実的な対策になる。受験競争や詰め込み教育型の強制力は必要だろう。親や教師は勉強する子には褒賞を、しない子には罰を与える「あめとむち」を有効に使うべきだ。
  3. 「勉強することは良いこと」という価値観を再構築するべきだろう。
 和田秀樹氏の著作はしばしば引用するが、ここで表明されている内容は、氏の御著書『痛快!心理学』で説かれているようなコフート流精神医学というよりも、いま私が上に述べた行動分析流の随伴性概念の強調であるように思えてならない。つまり、上記の1.や2.は、「何もしなくても平穏」という状況だけでは行動は強化されないこと、行動を増やすためには、少なくとも初期の段階において、アメ(=付加的な好子出現)とムチ(=好子消失阻止の随伴性)による強化が必要であることの指摘であり、3.は確立操作についてのご提案であると言えよう。

 但し、念のためお断りしておくが、行動分析は、アメとムチを永続的に使い続けろとは一言も言っていない。それでは子どもは、第三者から調教されているだけのペットになってしまう。必要なことは、第三者から付加的に与えられていた結果を、学ぶこと自体が楽しみとなるような自然の結果(natural contingency、行動内在的随伴性とほぼ同義)にどう置き換えていくかという工夫だ。この部分が欠落すると、教育改善は全く無意味なものになってしまうと言っても過言ではない。




 連載1回目(11/24)の新聞記事には、もうお一方、佐藤学・東大教授のコメントがあった。

 その中で佐藤学氏は
「どうせ学んでも無駄」「自分には能力がないから無理」というニヒリズム(虚無主義)、シニシズム(冷笑主義)が浸透している。
と書いておられたが、虚無主義の本を一冊も読んでいない子どもたちがそんなに簡単に「虚無主義者」になれるわけがない。これは単に、現象を難しい言葉で分類記述しただけであって、何ら説明概念にならない。

 コメントの後半の
「勉強」から「学び」へと転換することが必要だ。ひたすら教師の説明を聞き、黒板と教科書を読んで理解する座学の「勉強」から、具体的な道具や素材や人と出会う活動的な「学び」へ。自学自習の「勉強」ではなく、自分のアイデアを惜しみなく提供し、仲間のアイデアから謙虚に学び合う「学び」へ-----。
という部分はその通りだと思う。但しそのためには、学校教育の内容を全面的に変え、かつ、入試の方法も改めなければ実現はできない。大学教育なら、いくらか可能だと思うのだが、私のゼミでは、このことで苦労している最中である。次回に続く。