じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 忙しくて延び延びになっていたが、サツマイモをやっと掘り起こした。その中に、これまでで最高記録と思われるジャンボ芋あり。残念ながらひびが入っていて、少し傷んでいる。





11月16日(土)

【ちょっと思ったこと】

男性非婚時代?

 11/15の朝日新聞くらし欄で、40代の未婚男性の話題が取り上げられていた。2000年国勢調査によれば、40代男性の未婚率は全国平均で16.4%となっており、1995年の13.6%に比べて2.8%の増加。もっとも高いのは東京と沖縄(←沖縄で高いのはなぜだろう)で22.5%、つまり、4.4人に1人は独身ということになる。

 記事では、もっぱら、未婚(非婚)男性への風圧が取り上げられていた。
  • 職場の上司から「なんで結婚しないんだ」と言われるが、セクハラという認識がない。
  • 職場や取引先では、結婚した理由は問われないが、結婚しない理由は問われる。
  • 母親から「その年で結婚しないのはまともではない。...お母さんは不幸です。」と言われる。
  • 独身者は、配偶者控除や家族手当が無い分、収入面で風当たりが強い。
といったぐあいだ。このうち収入面は妻の生活費を考えれば必ずしも独身者が不利益だとは思えないが、結婚しないことを不自然であるかのように扱うのは、やはり、多様な生き方を否定した価値観の押しつけにあたる。職場では慎重な配慮が求められるかと思う。

 記事によれば、厚生労働省の私的諮問機関「少子化社会を考える懇談会」が今年6月にまとめた中間報告では、「結婚するしないとい、といった多様な生き方を尊重する」という文言は、報告末尾の注釈にとどめられたという。個人レベルでの多様な価値観を尊重するといっても、やはり国レベルでは、結婚を奨励し、さらには出生率を上昇させることが重要な政策課題であろう。といって一般論や抽象論ばかり並べても改善にはつながらない。何か妙案はないだろうか。
【思ったこと】
_21116(土)[教育]戦後教育の終焉と日本型高等教育のゆくえ(7)人間が利己的経済主体でないとすると...

 11/14の日記の続き。大学教育からは話題がそれてしまうが、11/14の日記で、
「欲するものを追求する競争を行い、国家による干渉を最小に抑えるならば、社会全体として最大の利益が生ずるという期待」は、新大陸に移民してきた白人たちが描いた期待である。しかるに、地球規模の環境保護や、持続可能な循環社会が強調されるいま、むしろ、開放系ではなく閉鎖系の知恵を活かすことが求められている。
と書いたことについて補足しておきたい。

 ここで考えておきたいのは、開放系の経済が「欲求の発散」を可能にする「自由な社会」なのに対して、閉鎖系の経済は、「我慢と協調」を重んじる「窮屈な社会」なのだろうかという点である。

 さらに人間を利己的経済主体として定義することについては

●それは正しい定義だが、弊害が大きいから制限を加えるべきである。

●それとも定義自体に欠陥があるのだろうか。人間は、むしろ、閉鎖系の中にあってこそ、真の幸福や自由を享受できる。

という2つの考えがうまれてくる。 これは、早い話、もし我々に十分なお金があったら、どんな場所に住みたいかということにも関係してくるだろう。
  • もし人間が「個人はいずれも自立し、自分にとって最良の判断、選択、意思決定を行う能力をもつ存在である」であるならば、おそらく人々は、広い庭つきの大邸宅に住み、個室で一人あるいは家族だけの生活を楽しむことを最大の幸せとするに違いない。
  • これに対して、もし、いくらお金があっても、長年住み慣れた団地からは離れがたくコミュニティ内での活動に参加したりお互いに助け合うことを最大の幸せとしているお年寄りが居たとすれば、これは後者の考えを支持する価値観ということになるだろう。さらに後者では、「何でも好き勝手に気ままにふるまうこと」が自由ではない。相互のインタラクションの中で、自分が発揮できる役割のリパートリーを増やすことにこそ真の自由が見いだしうる。


 もとの論考(www.ac-net.orgでは、開放系と閉鎖系に関して、文化心理学者の北山とマ−カスが唱える「相互独立的自己(independent self)」と「相互協調的自己(interdependent self)」の概念を紹介しているが、アメリカ化が進んだ今の社会、東洋でも果たして相互協調的自己は健在と言えるのだろうか。個人的には、私は、そのような比較よりも、むしろ、エコマネーなどで言われる「互酬」が文化以前に原初的に存在し、それが市場経済によって駆逐されて開放系の自己認識を定着させたと考えるべきではないかと思っている。さらに言わせてもらえば、

●まず文化があって「相互協調的自己」が形成されるのではない。個人の行動が主としてどのような結果によって強化されているのかが重要。具体的には、主として交換価値によるのか、行動内在的価値によるのか、互酬によるのかということだ。
  • 交換価値によって強化→行動することに伴う付加的結果(第三者が付与する交換価値)によって相互独立的自己を形成し、利己的経済主体となる
  • 行動内在的価値によって強化されるタイプ→行動に内在する結果(体を動かす、演奏する、景色を眺めるなど)によって、同じく相互独立的自己を形成。但し、世俗には無関心、貧乏でも自分の世界にこもって生きる
  • 互酬によって強化されるタイプ→行動することに伴う第三者からの付加的結果によって強化されるが、結果の本質は交換価値ではなく互酬である。これによって相互協調的自己が形成される
 いま、「まず文化ありきではない」と述べたが、あるコミュニティに存在する随伴性自体を文化と呼ぶのであれば、かならずしもそれにこだわるわけではない。要するに、閉鎖系が社会的随伴性を形成し、それが文化をもたらすと言いたいのである。